不屈の精神より、エホバの証人としての贖罪を手軽な行動で示せ

私怨より義憤、憎しみより道徳的義務?

『良心の危機』第2章「私が本書を書く理由」より。

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著者がこの本を書いたのは、自身のエホバの証人としての稀有な経験と、さらに一般エホバの証人が知り得ないことを知ってしまったこと。そして、その2点から導かれる道徳的義務だと説明している。

なかなかにお上品な動機であり、エホバの証人組織への怒りとか憎しみとか恨みで動いている私との違いを感じる。

この本の影響は大きく、人を動かすには(特にマインドコントロール下にある特殊状態の人には)負のエネルギーよりもこういった道徳的、高尚なものの方が効くのかとも思ったり。

という訳で、第一にカルト被害者の救済。第二に社会悪であるカルト組織の撲滅のために。そして、第三に大きな大きな私怨と、看板を掲げ直すか。とはいえ、第一第二要因についても、義憤といった方が良くて。やはりこの本の著者と私の動機はちと違うなと。

元エホバの証人2世の贖罪

自分もほとんどないのだけど、著者にも欠けていそうな視点。贖罪。親のせいでカルト組織に取り込まれたという点では著者も私も同じなのだが、たとえ本意でなくともカルトに組した罪はある。

14才でやめた私ですら、組織の典型的子供として広告塔のような役割を負わされていた。反骨の塊のような子供だったので、さほど役に立ったとも思えないが。

子供相手にエホバの証人の宗教本を使った洗脳教育の真似事をさせられていたこともある。

相手の家族にとってみれば、エホバの証人といえば私の両親と子供の私であり、私の家族はカルトの手先ということになる。やはり私自身、被害者でしただけでは済まない。同時に罪も背負っている。

エホバの証人2世のいじめと二面性

著者に至っては組織上層部に上り、洗脳用宗教本の執筆も行っている。行動の動機として、第一にカルトに組した贖罪がくるべきだと思うのだが。

精神世界、つまりはお花畑から脱していない

その反省と後悔が感じられない使徒パウロの引用が

苦難と苦しみの時に不屈の精神を持つことで、我々は神の僕であることを証しだてる

著者自身の僻地・戦地での真摯なエホバの証人活動が

使徒パウロが言う、神とキリストへ奉仕が真のものだという証しだてに通じるものがある(質において大きる劣るにせよ)と思う

と書いている。どんだけ悲惨な目に遭いそれを耐え抜いたからって、それがエホバの証人活動のためだったら全部ムダ。大きく質が劣るというレベルではなく単なる罪。

著者の理論がとおるなら、不屈の精神でやったことはどんなことでも、真のモノということになる。

そんな簡単なことで良いなら、不屈の精神で世界中の王国会館壊してまわるよ。それはカルトの撲滅と救済という高尚かつ不屈な精神から発した行動ではあるけれど、決して許されない行為だよね。

精神ではなく行動が問われるのが、この世の理。そういう意味で著者はまだエホバの証人の生息している架空の精神世界、つまりはお花畑に近しい所から脱していない。


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