良心に従い宗教を脱会するときに、立ちふさがるカルト的なもの

何らかの態度を貫くとは

『良心の危機』、第1章「良心の代償」より。

生涯が終わりに近づいてきた時、「少なくとも私は何らかの態度を貫き通した」と言うことのできる人の方が、何の立場も貫かなった人よりも満足感が大きい

当初、「ごもっとも」とうなづいたのだが、

かたくなにも「エホバの証人としての態度を貫き通しました」なんて人が出てくると困る。それは単なる自己満足で、ものみの塔組織の言いなりになっているだけ。何らかの態度を貫くという美しい姿勢とは、対極。

頑迷なマインドコントロール状態を貫いて生きるのも、「何らかの態度の貫き」であろうと言われれば、それはその通りで残念極まりない。

その時々で柔軟にベストな対応を取るという態度だって、それを続ければ「何らかの態度を貫き」通したということにはなる。

結局はものの見方しだい。エホバの証人には「家族に迷惑をかけない態度」を貫き通して欲しいものだ。

『良心の危機「エホバの証人」組織中枢での葛藤』、回り道回避の一冊

脱塔すべきという良心

宗教的権力の圧力を前に自分の良心に忠実であろうとする苦悩

良心なら良心でいいのだけど、そんなものがなければ、宗教的圧力より、自分の欲望や勘に忠実に生きた方が良い。それでまず間違いない。

「欲望のままに生きたら、犯罪犯しちゃうよー」なんてのは下らない戯言。犯罪犯して捕まりたくないという欲望を優先してくれ。

人類の本能が間違っているのだとしたら、ここまで人類は繁栄しないはず。宗教的圧力がなくたって人類はうまくやってきた。むしろカルト的な宗教圧力など人類には不要。

宗教的権力に対抗する良心や欲望を打ち砕くものが

長年の友人を失い、家族関係に深い傷を及ぼし、幾世代もの宗教的伝統を犠牲にする危険

自身の願いや良心に従って、とある宗教をやめようとしたときに

  • 長年の友人
  • 家族

に被害が及ぶ宗教があったとしたら、それはカルト。

たかだか宗教ごときで人間関係が損なわれる可能性があるのなら、その宗教は人々の自由を束縛し行動を制限しようとするカルトに間違いない。

そういう意味では、エホバの証人は間違いなくカルト。

人間関係が損なわれるのは痛いが、カルトからは足を洗うべき。しかも今すぐに。なぜなら、今が一番人間関係が損なわれるリスクが少ないから。

時が過ぎるほど、既存のカルトの人間関係を損ねる痛みが増すし、全く新しいカルト外の人脈を築ける時間を失っていくから。やめるなら今が一番良いとき。

エホバの証人をやめたいという方、私は心の底から応援します。

この本の著者の米国と違って、日本の場合は幾世代もの宗教的伝統を圧倒的に毀損しているのは、外来のカルト「エホバの証人」の方。

「祖父の代からエホバの証人なんです」って場合も心配ない。そんなの宗教的伝統でもなんでもない。そのまた上の世代はこの国古来の雑多な信仰心だったのだから。


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