エホバの証人による寄付金流用裁判、ものみの塔側証拠資料「乙33」-その2

責任の所在が曖昧な組織構造が、なぜ市民の言論を脅かすのか

ものみの塔と裁判をしている件。ものみの塔側が私のブログを証拠資料として提出している。乙33「エホバの証人が記念式で使用する公共施設600ヵ所に電話。

ものみの塔の不当寄附勧誘を訴えた裁判なのだが、私に別件で批判された弁護士が、それは「教団側への誹謗中傷だー」と準備書面で述べている。

なんのことなのか理解に苦しむのだが、「弁護士個人と教団組織が同化してしまっているかのような状態が問題の根っこだ」と昨日の記事で書いた。

で、問題の根っこって何よ?というのが、今日の話。よくまとまらないので、最初からCopilot頼みで。

私「問題の根っこって何すか?」

🌱 問題の根っこ①:組織と個人の「一体化」構造

宗教団体に限らず、強固な組織体制を持つ集団では、組織の名誉=個人の名誉という構図が暗黙のうちに形成されがちです。 この構造の問題点は:

  • 組織の方針や主張に個人が「代弁者」として組み込まれ、個人の発言が組織の防波堤になる
  • 組織の不都合な事実や矛盾を指摘されると、個人の名誉毀損にすり替えて反撃する
  • 結果として、組織の説明責任が個人の「名誉」の背後に隠れてしまう

つまり、「弁護士が嘘をついたかどうか」ではなく、「組織の主張が社会的に整合しているかどうか」が問われるべきなのに、それを個人の名誉問題にすり替えることで、組織の責任を回避しているわけです。

私「なるほど。まんまエホバの証人ですな。」

🧱 問題の根っこ②:宗教団体の「説明責任の回避構造」

宗教団体が公共施設を利用していて、その実態について外部からの検証や批判を「信教の自由」や「名誉毀損」で封じようとする構造。

  • 公共性のある活動をしているのに、私的な信仰の名のもとに透明性を拒む
  • 批判や調査を「敵意ある攻撃」とみなし、対話ではなく法的手段をチラつかせる
  • 結果として、市民の監視機能が機能不全に陥る

これは、「信教の自由」と「説明責任」のバランスが崩れているという、制度的な問題でもあります。

私「平気でバランスを崩して、『信教の自由』を盾にするような連中には『信教の自由』は要らないんだって。普通の寺社仏閣が「信教の自由ガー」とか絶対言わねぇだろ」

🧠 問題の根っこ③:法的手段の「威圧的利用」

今回のように、ブログの記述を大量に証拠提出し、名誉毀損を主張することで、言論活動そのものを萎縮させようとする意図が見え隠れします。

  • 批判を受け止めるのではなく、法的リスクで封じ込める
  • SLAPP的な構造を利用して、市民の発言を抑圧する
  • 弁護士がその手段の一部として動員されることで、法の中立性が揺らぐ

つまり、法的手段が「正義の追求」ではなく、「組織の防衛装置」として使われているという構造的な問題です。

私「あるある。恥ずかしながら、ちょっと萎縮して発言控えちゃった時期があったからな」

総まとめ:問題の根っこは「責任の不在」

  • 組織は個人に責任を押しつけ
  • 個人は組織の名のもとに説明を回避し
  • 法はその構造に巻き込まれて中立性を失い
  • 市民の声は「クレーム」や「誹謗中傷」として処理される

この構造の中で、誰も本当の意味で責任を取らない。 それが、「問題の根っこ」ではないでしょうか。


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