ものみの塔の自己不信、そして信者への信頼感の欠如

ものみの塔の自己不信

『エビのしっぽ』より。

信頼感がある社会での批判は意見の相違として反対であるにせよ「私はあなたの意見には反対だがあなたの批判する権利は守る」となりやすい。

信頼感の低い社会は、信頼感ではなく他者の視線への牽制を信頼感の代替として使うので、批判そのものを牽制できないものとして許容できない

当然、前者の「信頼感あり、批判する権利あり」があるべき姿。それに比べてNGなのは後者。「信頼感なし、批判しちゃダメ」

エホバの証人組織は後者。組織への批判一切が受け入れられない。内部の批判者は即破門。背教者扱いされ、排斥という処分になる。外部に対しても同様。批判者どころか、外部情報の一切に触れることがエホバの証人には推奨されていない。

本ブログなどは厳禁で、背教者と会ったりするだけで、前述の排斥という村八分始末になる可能性がある。(従った覚えもないのに背教者と言われるのも癪なのだが・・・)

ものみの塔が信者の情報遮断に躍起になっているのは、至極真っ当な批判意見に信者が感化され、目を覚ましてしまうのを恐れているから。信者数の維持が組織の維持と同義であるため、信者の覚醒からの脱会という生還ルートを何としても阻みたい。

信者が背教者と会ったりするだけで、脱塔しちゃうと恐れているのは、ものみの塔が自己への信頼感がないから。自信と言い直しても良い。

エホバの証人、組織の言うことは絶対モード

エホバの証人に「信教の自由」はない

ものみの塔は自身の存在そのものに自信がない。ゆえに外部者と議論しないし、信者たちにも新鮮な外部情報に触れることを制限している。

さらに、ものみの塔は信者であるエホバの証人一人ひとりを信じていない。真実を知ったらスグにやめちゃうでしょと。これは自らの不義と自己不信の裏返しでもある。

ものみの塔よ。もっと自分の洗脳技術に自信持ったら?

自己不信に陥り、信者に対しても不信のあまりに情報統制と信者間の相互監視を強いるものみの塔協会。そんな組織にあなたは属し続けますか?

転じて、ものみの塔の悪質さを私自身が引き継いでいないかと自問自答。子供の頃、強制とはいえ、この超絶独善集団に属していた悪影響が私自身に残っている可能性を鑑みる。

ひたすらにものみの塔が嫌いで、エホバの証人がこの世界から消え去って欲しいと願ってやまない私は、独善的になりやすい。

「カルトに信教の自由はない」

「聖書解釈はものみの塔の反対をいっておけば間違いない」

とか簡単に言っちゃう。これじゃダメ。

本気で、カルトに自由はない、ものみの塔教義の全てが間違っている、と思っているのだが・・・思うと発信するは別であるべきなのだろう。


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