不要、他者の視線への恐怖~自分で思うほどには見られていない

他者の視線に対する恐怖

『エビのしっぽ』より。

人間は人間に対して、より過剰にアラームを鳴らすことが結構多いです。何々さんはこう解釈するに違いない。こう言われるかもしれない。それって考察したところで、大抵そんなに意味がないのに、すごくそこで悩む。

他者の視線を気にしすぎるのが、元JW2世(エホバの証人二世)ゆえの特徴であると何度か書いた。子供の頃に、学校行事禁止で見学の憂き目を見たから。

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好奇心旺盛な同級生たちは、変り者を遠慮なく注視する。子供に対して見るな、興味示すなという方が無理難題であり、それはそれで問題。無視=イジメにつながる。

この視線を浴び続けた影響が、大人になっても、JWをやめても残っている。他者の視線が怖くて、自分の思いのままに歩めない。これは元JWとか限定しなくても、一定数の人間の普遍的な問題とも言える。

ところが、他人から自分というのは、自分で思うほどには見られていない。

例えば、1対3の就職の面接に臨む。自分が面接受ける側で一人、相手の面接官は三人。自分が三人からガチガチに見られている。一挙手一投足、足の先から頭のてっぺんまでチェックされている。そう思うでしょ。

そうでもないんです。面接する側はPC開いてメールチェックしているし、面接官の中でも三人目の人って、そんなに発言にしないし、自分事じゃなかったりして、別のこと考えてたりする。

人間が三人いれば、一人目が超がんばって、二人目はそこそこ、三人目は手を抜いちゃう。三人目が、次の人はうちの部署で欲しいとやる気を出して質問し始めれば、後の二人の関心レベルは低下していく。

いわゆる2:6:2の組織の法則。働きアリの法則。2割の働きアリが働きモノで、後の2割はサボりがち。働きモノ2割がいなくなると、中間6割のうち、働きモノに変化するのが出る。サボりがち2割を切っても、中間6割の中からまたサボりアリがでてくる。

また、面接官にしてみれば、今日はこの後、10人も面接がある。あなたはその中の一人に過ぎない。と考えれば、自身が思うほどには、自分は見られていないと思って頂けるのでは。

だから、面接の極意は、相手に自分を見させること、相手の記憶に自分を残すことだと思うんだけど、これは話しが逸れるので置いておく。

要チェックされるべき面接でもこの程度なので、一般生活の中では思っているほど、自分のことって見られていない。見られていても記憶されていない。

例えば、電車の車両で一人だけマスクをしていない人がいたとする。しかもケホケホ咳していたり。

「何だこいつは?」と思うけど、翌日になってその人の顔をハッキリと思い出せる?その人がマスクしちゃったら?もう誰だか分からない。

そんなにも、人は他人の行動を注視していない。だから恐れなくていい。

「他人にどう思われるか」より、「この行動の結果はどうなるか?」と素直に考える。また、「この行動をしなかったら、自分は後にどう思うか?」って考え方の方が良い。たいてい、行動しなかった場合の方が後で後悔するから。


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