エホバの証人からの解放、絶望こそが人生
エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)から。『ものみの塔協会の誤導からエホバの証人を解放するために』より。
エホバの証人(JW信者)一人ひとりをものみの塔から解放すれば、最終的にはものみの塔が崩壊する。私の悲願が叶う。私怨で始めたことだが、エホバの証人の解放は、彼ら本人にとっても成し遂げられるべきこと。
夢を見ている人は、途中で起こされると不機嫌になるかもしれない。しかし、完全に正気になれば起こしてくれた人に感謝するはずである
エホバの証人は高齢化が進んでいて、もう老い先短い。そのため、「夢見たまま死んでくれた方が良い」という話をよく聞く。死の間際に絶望して欲しくないと。エホバの証人2世の被害者にしてみれば、親が今さらものみの塔のマインドコントロールが解け、詫びられても許せないと。
果たしてそれで良いのか?
絶望こそが人生。夢を見たまま死んでいくなんてのは偽りの人生。偽りの人生を生きて、ものみの塔に騙されたまま死んでいくほうが良いなんてのはあり得ない。真実を知り絶望して、それでも何とか取り返そうとして、叶わず無念と一緒に死んでいく。それこそが人生。
エホバの証人たちは、自分の人生を取り戻し、犯した過ちと取り返しのつかない時間、失った家族を思い浮かべて絶望すべき。そこから先にしか人生の真理はない。
エホバの証人2世、親との和解
エホバの証人の親が覚醒して、詫びられても今さら許せない。だから「覚醒しないでそのまま死んでくれ」というエホバの証人2世被害者の願い。
分からないでもないが、それで良いのだろうか?
許したくなければ、許さなければ良い。それでも、ただ一言謝られるだけで、だいぶ癒しにはなった気がする。あくまで私の場合だが。
許せないというのは、許したくないということ。「許す」or「許さない」と、考えているのは、謝られたい、当然謝るべき、謝るだろうという希望的観測があるから。
あいつら、エホバの証人の親は覚醒したとしても、多分ろくには謝りませんよ。
謝罪があったとしても、謝り方は自己愛に満ちていて、「(見知らぬ地でたった一人、子育てに迷って苦労して仕方がなかった。でも、)厳しく育てたことを後悔している」のような、中途半端な感じになる。
これじゃ許してやりたくても許せない。とはいえ、これだけでも親子の確執はだいぶ緩んだのだが。
「カルトに騙されて愚かでした。親として間違っておりました。一生償っても償い切れません」これくらいスパッと謝ってくれると、こっちも「もうちょっとエホバの証人を先に辞めるときに気を使えば良かったです」となるのだが、
いまだマインドコントロール下にあるのか無いのかすら良く分からない、中途半端な謝り方をされると消化不良。
自らカルトに堕ちる1世信者は、これくらいが期待の限界。私は、完全なる和解はムリだと線引きした。もうちょっと突っ込んで話せるときが来るのかも知れないが、今はこのレベル。
親のほうには、カルト教育してしまったが、それでも経済的に養った、学校を卒業させたという自負が残っているような気がする。100点満点ではないけれど、大人になって独り立ちさせているので、70点くらいと。
子どもにカルトを押し付けた段階で、全て吹っ飛ぶ赤点クラスの重罪なのだが、それを理解できるのは2世の被害者の側だけなのだろう。