新世界訳聖書は必要ない
エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)より。『欠陥翻訳ー新世界訳』の最終章「字義訳―新世界訳は必要か!」
エホバの証人=ものみの塔協会=新世界訳聖書というつながり。これら全てが不要。
カルトの証人=カルト協会=カルトの悪書であるから。
本資料では、最後の最後で、新世界訳にも個性、味わいがある。エホバの名を全面的に用いているユニークな聖書であるという見方もできる。新世界訳聖書を異文化、多様性として認めるという意見が出てくる。
ここまで「欠陥聖書」である証拠とその「欠陥」が信者にもたらす弊害をひたすら挙げてきた。最後に、分量としてはほんの僅かであるが、ものみの塔寄りの意見が一瞬たりとも出てきたのが残念でならない。
カルトの多様さなど認める必要はない。
神の出現がものみの塔の終わりの日
とはいえ、筆者のものみの塔協会への裁きを望む姿勢はほぼ一貫しており、
結末部分で以下のように皮肉にまとめられている。神の名は
もうヤーウェに決定してもよいと言えるかもしれないが、ものみの塔協会に関する決着がつかないうちはまだ早い
とし、神の出現が、ものみの塔協会の裁きとなることを望んでいる。
新世界訳はエホバの神性をおかしくするような聖書であり、ものみの塔協会にいたっては完全に神の神性を否定してしまっている。これを放置するようではもはやエホバではない。ものみの塔協会を裁いてこそ本物の神である。神聖な名前を汚されても何もできないようでは、エホバとは単なる名ばかりの存在、ものみの塔協会の教義上の存在に過ぎなくなってしまう。
ものみの塔が未だ存続している現在、神はいないと考えるべき。ものみの塔というカルトの存続が神の不在を証明している。
エホバとはものみの塔の教義上の架空の存在。故にものみの塔への裁きも起きない。エホバとはものみの塔協会の創作物。
逆に、ものみの塔協会が裁かれた場合は、
確かにエホバは自らの存在と神聖を証明したことになる。その時には、神の名をエホバに決定してもよいであろう。
ものみの塔協会が消えれば、神の存在と神性が証明されるということ。きっとその神は、
「私の名はエホバじゃございません」と名乗るだろうが。
ものみの塔協会=裁かれるべきものであり、ものみの塔が存続する限りは、神は不在。神がいるのであれば、ものみの塔は裁かれる。というのが筆者の主張。
あくまで「神を待ちます」という態度なのだが、本気なのか、皮肉なのか。とはいえ、神はいないので、自らものみの塔に鉄槌を下すために、このような長大な資料を書いたのであろう。
その意思を引き継ぎ、私は「神を待たず」にものみの塔を倒壊させるべく、活動していく所存。
『燃やす用』の聖書
この最終章では、新世界訳聖書を廃止し、徹底的な字義訳を研究用とし、別に通読用の聖書を作るよう勧めもしている。
ものみの塔には、「何もしないで欲しい。消え去って欲しい」というのが私の意見なので、新たなものみの塔聖書の製作など不要。
ところが、ものみの塔協会は、最後の悪あがきなのか2019年に改訂版の聖書を発行している。私は手に取ってもいないので、内容を知る由もないし、読む気もないのだが、字義訳にこだわらないバージョンらしい。
ものみの塔協会は、結果的にこの資料の提案通りに動いたことになる。
私も何らかの手段で、2019年の改訂版の聖書を入手したいものだ。
『燃やす用』に。