聖書はギャグまたは汚書である

聖書の限界とは

ネットでダウンロードできる真理真氏作成のJW解約資料。第6弾「原理主義者の限界」より。「聖書の限界」の項目。

JW解約-エホバの証人の真理を検証する

日本のエホバの証人はもともとが神仏雑多な感覚を根底としている。彼らが知り得ない聖書の常識がここで説明されている。

聖書は66巻の書から成り立っている。66の不完全数なのはなぜかと、この資料では指摘。たまたまなのかも知れないが、聖書の編纂自体が何らかの悪の影響を受けていることも十分考えられる。

つまり、聖書=ギャグ。

ものみの塔協会がオカルトシンボルを出版物に隠しているのはギャグという記事でも書いたが、聖書も同様。何らかの皮肉を込めた人物がブラックユーモア的に聖書を編纂した。

本来の目的は、重要肝心な部分を除去してミスリードするための聖書の編纂。ついでに巻数を不完全数の66にして、誰か気付くかな?とアイロニーなヒントを残した。

つまり、現代人が崇め奉っている聖書そのものが悪書。重要な内容は編纂外となった偽典・外典に載っているということ。現在の聖書の内容にない「輪廻転生」、これは聖書「候補」であった外典の記述。

楽園や復活・キリストの数々の奇跡・天地創造、それらを言葉のままに真実と捉えるのなら、「輪廻転生」も十分にあり得ること。それらを切り分けたのが4世紀の人間の手による仕事。

ユーモアセンス溢れる66というヒントを残した人物が、何らかの霊の影響下にあったことも考えられる。何らかの霊はキリスト教徒の立場から見れば悪霊ということになる。ギャグセンスのある悪霊さんは聖書の正典の数を66とさせることで、永遠の呪いを聖書にかけた。

つまり聖書=汚書。

あくまで可能性。聖書そのものが4世紀に人間の手によって編纂された者である以上、何らかの人為的・霊的な作為が入り込む余地は十分にある。

聖書はとくに聖なる書ではない

聖書の編纂をしたのはバチカンでそこには政治的な意図が多いに盛り込まれていた。本資料によると、キリスト教をローマ帝国の国教とするために、ユダヤ人臭い福音書は聖書から削除された、とある。キリスト直系の使徒より、異邦人のために活動したパウロの書が重視された。

この時点で、聖書が聖なる書であるという根拠は薄れる。政治利用と人種から自由になっていない書物。リベラル感覚で書かれた書籍にはない固執が残る。

これが聖書の限界。とくに聖なる書ではないんです。聖書は政治とマーケティングのフル活用で全世界に広まっただけ。ベストセラーの中の一冊に過ぎない。

エホバの証人向けのメッセージとしては、現在の聖書の編纂を行ったのはカトリック総本山のバチカン。エホバの証人が娼婦と蔑む大いなるバビロンの代表格。彼女が政治家のために編纂したのが現在の聖書。

これでも聖書が真理への唯一のルートであると言えますか?


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