解釈の困難な聖書の真実が明らかになる方法とは

自ら輸血が必要な状況を招いているJW信者

エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)の『欠陥翻訳ー新世界訳』より。昨日の記事で壮大なJW人体実験が導き出したキリスト教の普遍的真理について書いた。

ほぼ全てのJW信者が病んでいる。脳内お花畑の信者でも身体を病んでいたり。「輸血拒否、輸血拒否しなきゃ」と輸血拒否主張カードを携帯してまで念じているので、逆に輸血が必要な病状を引き寄せる。

身近な人で輸血が必要になったという話を、エホバの証人以外から聞いたことがない。「輸血が―」と言って、病院で困っているエホバの証人の話はよく聞く。あげくの果てに輸血拒否で亡くなったり。

私も子供の頃その一人だった。輸血拒否をイメージすることで輸血が必要な状況を自ら招いている。何たる不幸。

このJW信者の抜群の不幸さはJW教義の非真理を証明する。JW教理が非真理であれば、キリスト教の聖書の解釈の方向性が見えてくる。非真理確定のJWの教理の逆が正しい。神は三位一体として存在し、神の名はエホバでないし、輸血したって何の問題もない。目の前の命を大切にする方が大事。

このように乱暴な方法でキリスト教の普遍的方向を定義した訳だが、本資料では聖書解釈において

絶対的な基準が確立される、あるいは明らかになる道が残っている

と書かれている。

解釈の困難な聖書の真実が明らかになる方法とは

キリスト教の根本的教義の解釈の基準で、どれが正というのは証明できない。非真理確定なのは私が知る限り、不幸信者だらけのJWだけ。

他の○○教会とかも怪しいもので、まかり間違いなく非真理なのだろうが、当事者として体験した訳ではないし、実際の信者の知り合いがいるわけでもないので言及は避けておく。

こういう公平な立場に立ったうえで聖書を解釈しようとすると、各キリスト教系宗教の解釈、どれが正かは判断できない。しかし、唯ひとつ明らかになる方法がこの資料に書かれている。

最終的には神自身がその基準になるとされている。つまり神が自分 で答えを出すということである。ものみの塔協会でいえば、それはエホバ。

ところが、

原則的には、本文や翻訳そして聖書解釈の重大な問題が生じたとき、直接神が答えを出してくれれば論争は生じないということになるのだが、キリスト教の歴史が示すように、そういうことは起きたことがない。誰もが聞けるような天からの声はなかった

ゆえに聖書解釈はフワフワとふらつく。そこにJWのようなニセモノが紛れ込む余地を与えてしまう。

この資料では、皮肉なのか本気なのか以下のように続く。神の顕在が

今までなかったということは、必ずしも、今後も絶対にないという ことを意味しているわけではないので、可能性としては残っていると言える。

ないよ。これは。神は死んだか、人類に無関心か。もとから存在しないか。この場合の無関心というのは、JWのエホバみたいに不必要に人間に干渉しないということ。神は心の中にいればいい。

顕在して「ハルマゲドン~」とか暴れ出すような神は不要。

ものみの塔協会が主張する「創造者の約束」にムリがあるワケ


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