職業選択の自由まで奪われる、思考停止状態のエホバの証人

聖書を飛躍している、ものみの塔の教理

昨日の記事で、エホバの証人の子ども向けの黄色いの本の記憶についてふれた。兵士の水の飲み方をチェックして、抜擢する基準にした話。当時、子どもだった私がこの本の矛盾にツッコミを入れている。

親にこの逸話の矛盾を話すと、とにかく「ものみの塔が正しい」で、押し切られる。それでも、性格がひねくれている私は引き下がらない。

時と場合による比喩だと逃げるので、

「じゃ、”剣を鋤の歯に打ちかえる”というのも比喩じゃない?実際にそんなことしている人いないよね?神に仕える兵士が聖書に出てくるし、戦争ごっこしても良いんじゃない?」

エホバの証人が、戦争・暴力的なモノ・武器・武術授業などの一切を避けるのは聖書の次の聖句による。

彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない”

子どもの私の指摘は、この聖句が直接的に「折紙の手裏剣」の製作や「モデルガン」所持・使用の禁止を指しているのかということ。

川の水を古代人は飲んでも良かったが、現代人は衛生的に飲んだらダメ。それは比喩だから。「血を食べてはならない」も、輸血拒否に直結するのか?こんな疑問を親にぶつけると、「ものみの塔協会の出版物に書いてあるから、それだけが正しい」と、言われて話にならない。

聖書に直接、「キン肉マン」を見ちゃダメって書いてあるわけではない。とはいえ、親は絶対に折れない。「あまりにもしつこいと、懲らしめになるよ」と、暴力をチラつかされ、脅されて終了。

聖書に書いてあることを越えたらダメと、聖書に書いてあるのに・・・。ものみの塔は独自の解釈で聖書から飛躍している。さらに、親がそれを都合の良いように解釈して、子どもに押し付けている。

職業選択の自由まで奪われる、エホバの証人

さらに思考停止状態の信者になると、何でもかんでも長老や研究司会者にお伺いを立てる。私が見ていて驚いたのは、父が研究司会をしていた家族持ちの男性。

「原子力発電所関連の仕事に就くのは、ふさわしいでしょうか?」父は会衆の長老だったので、そんなことまで聞かれていた。

「お前の仕事はお前が考えろ」と。職が無くて困ってんのに、ものみの塔的にどうかとか、いったいどこを見て生きているの?子どもながらに、この様子を見ていて疑問に感じた。というか唖然。

父もそうだったのが、良い大人がそんな感じで仕事を選ぶのかという驚き。愚かというか哀れに感じた。自分のやりたい仕事、就きたい職業に就けず、仕事も不安定、選ぶ基準がものみの塔基準に適っているか。

その不安定な生活基盤のもとで養われる家族もたまったもんじゃない。

わが家は喰うにも困らず、私は高等教育も受けさせて貰ったので、文句を言えた立場ではないが、子どもは親の背中を見て育つ。そんな人生の選択の仕方を子どもに見せて良いのか。

自分で考えに考えて決断するとか、家族に相談するとか、自分一人で決めて、それに家族はついてこい、とか。いろいろ選択方法はあって一長一短。

絶対にあり得ないのは、エホバの証人組織の顔色を見て職を選ぶとか、偽牧師みたいな長老に相談して決めるという愚行。

父が原子力発電所で働くことの正否を、正確に答えられるはずがない。そもそも、ものみの塔自体が聖書を都合の良いように解釈している。都合の良いように解釈を重ねた末の下流、最下流に位置する長老(父)が、原子力発電所が聖書に適っているか、そんなことを判断しようがない。

むしろ、聖書の書かれた頃に核燃料などが無かったのだから、誰にも分かりようがない。聖書にとっても想定外。

結果、「自分の良心に従って、もにょもにょ・・・」といった回答になる。そりゃそうだろ。「自分で考えろよ」と、子どもの私ですら思ったのだった。


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