『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』
『ドアの向こうのカルト』より。ものみの塔協会の聖書解釈の滑稽さについて考察する。
1940年代後半に、死海文書が発見された。この写本と現代の聖書が近しいので、聖書は神聖かつ真実であるというのがクリスチャンの主張。
しかしこれは、写生がミスを犯さなかったことを証明しているだけで、聖書が真実かどうかとは別の議論である。コピー機が何かの文書を正確にコピーし続けたら、そのコピー文書は神聖なものだと言うのだろうか?
この死海文書の四分の一は外典の写本で、バチカンはこの写本の公表を差し止めてきた。これは死海文書に都合の悪い記述があるから。現在の聖書の価値を貶める記載があるから。これはキリスト教会にとってもものみの塔協会にとっても都合が悪い。
そもそも聖書、聖書と言っているが、聖書は最も古くて世界で一番読まれた本であるだけ。単なる文学作品。本を人間よりも上位に置いて崇め奉ったところで何も始まらない。この本を、現代を生きている人間がどう解釈し、今に未来に活かすか考えるべき。
ものみの塔協会のように、2000年前の「血を避けよ」の記述をそのまんま現代人にあてはめて、輸血禁止じゃーとかやっているのは論外。お馬鹿さんもお馬鹿さん。
ものみの塔協会の輸血禁止令が聖書解釈を誤っていると言える理由
ものみの塔協会の輸血禁止は聖書解釈を間違った分かりやすい例。
ものみの塔協会は聖書研究して、正しい理解をしていますと主張しているが、全部ウソ。自分の都合の良いように解釈しているだけ。
輸血はダメだけど、血液成分なら個人の判断でオッケーよん♬とか、好きなように聖書を解釈しているだけ。
聖書の「血を避けよ」の記述の正しい解釈は、輸血も何もかも、個人の命の関わることは個人で決めるべき。最大限に命を守るように努めるべき。昔は血を飲んで腹壊して死んだ奴がいたから聖書に警告として書いてあっただけ。
現代人が生肉のレバ刺しとか喰えなくなったのと一緒。「血を避けよ」は生活への警告であり、信条とは関係ない。血は神聖だからの文言が聖書にあるかも知れないが、それは方便。神聖云々書いておいた方が、市民への警句となるから。
これも私の解釈なのだが、命がけで輸血拒否って死ぬよりは、ずいぶんマシな解釈だ。