安心してものみの塔にいられるように?
『良心の危機』、第5章「しきたりと律法主義」から。
なぜ、エホバの証人(JW)が従うものみの塔の指針はなかなか変わらないのか?変わるときも、なぜそれまでの方針の過失を認めないのか?
それは教団の方針を決める統治体の考え方にある。
長年にわたって何千という人たちが協会の方針に従うということで投獄をはじめ大変な目にあってきた。今になって方針を変更すれば、ではこれまでの苦労は必要なかったのかということになるだろう。そういった苦難も「義のための苦しみ」として満たされた気持ちで受け入れていたであろうに、ここで変更しては幻滅が生じ、自分の受けた苦しみを他の人は受けずに済むのかという不公平感すら生まれる
というのがエホバの証人の統治体様の考え。私も統治体の立場であれば同じように感じる。エホバの証人活動を苦行かつ罰ゲーム的辱めだと捉えているから。
そもそも苦難を喜びだと感じるマインドコントロール状態にはない。指針を改変して、幻滅・不公平感祭りで信者の脱会が増加するのも良いし、古い指針に固執して時代の流れに即さなくなって叩かれるのも良し。
筆者は逆で
むしろそのように苦しんだ人たちは、もはや自分たちが味わったように苦しみを味わう必要もなくみんなが安心して組織にいられるのだと喜んでしかるべきではないかと感じた
と書いている。本人は
聖書が説く精神
に寄せているつもり。実際そういった清らかな思いなのかも知れないが、カルト組織が安心していられるように変わるのを喜びと感じるのは、やはり脳内お花畑のJW状態。
輸血解禁、子供の信仰は子供の完全選択方式。楽園なし、復活なし、永遠の命なしの3なし実現からのハルマゲドン来ません&油そそがれてません宣言。ここまで膿を出しきってカルト臭消して、ものみの塔は聖書クラブの老人会になりました。安心して聖書を学べますとなったら。
それって喜ばしいかと言われれば、そうでもなく。現状よりは相当にマシなのかも知れないが。私が人間出来ていないのかも知れないけど、カルトはカルトらしくしてくれないと息を吹き返しちゃうかもしれない。
子供の頃に受けた私自身の恨みのためにも、ものみの塔には跡形もなく消滅して欲しい。
現状のものみの塔が体罰をやめている体なのは、無垢の子供が被害を受けなくて良いのかとは思う。しかし、過去について詫びることなく、悪びれることなくというふざけた姿勢。やはり徹底的に叩き破滅させたい。
内部から清浄化されるのではなく、外部から燃やし尽くしたい。
いずれにせよ、内部から清浄化されることなど、腐りきったものみの塔にはあり得ない。たとえ輸血解禁でもしようものなら叩きまくって、死んでいった信者の不公平感を煽るだけ。
ものみの塔が腐っているのは統治体の精神による
本書では腐りきったものみの塔の思考回路たる統治体について以下のように指摘している。
統治体が持つ自分たちのイメージ・信頼性・人への影響力について不安があるのではないか。間違いを認めることでこれが弱まるのを恐れているのではないか。
統治体が、前言撤回をしないのは不公平感を煽って信者離れされるのを嫌うのと自己保身のため。現実的即物的な考え方。自身の無さの表れ。そりゃそう。偽者なんだから。
エホバの証人に良心の自由を与えたら「神権秩序」に影響が出てしまうだろうと考えている
あくまで愚かな信者を飼いならし統治したい。腐った秩序。
方針の変更が伝えられている協会の出版物には、これまでその必要もなく苦しみを味わった人たちに対する思いやりは感じられず、協会は神の経路であり、統治体は神に指名され、導かれている管理者の集まりだというイメージを守ることが大事だという気持ちが見られる
単なる自己中。信者拘束のためのイメージ優先。愛なんてない。当然、人を導く立場に非ず。もとい統治する立場にも。