ものみの塔の日本語翻訳者が無能なわけ、聖書そのモノが抱える矛盾とは?

エホバの証人の使用している新世界訳聖書とは

以前に紹介した北海道の北広島で起きたエホバの証人の集団排斥事件の資料。同作者団体が執筆している他の資料より。

エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)

今回は『欠陥翻訳ー新世界訳』の序文から。

新世界訳聖書が欠陥品であると証明するために、まずは新世界訳聖書とは何か。カルト教団エホバの証人の使っている悪書なのだが、それは私の意見なので客観的な視点を『欠陥翻訳ー新世界訳』より借りる。

新世界訳聖書の日本語版は1982年夏の大会で発表。(大会というのは、エホバの証人の大規模な集まりのこと。大会では新しい悪書の発表が行われ、マインドコントロール信者が喜ぶという忌まわしき集まり。)()内は私の個人的意見

新世界訳聖書翻訳委員会が原語から英語へ翻訳、

アメリカ、ペンシルバニア州ものみの塔聖書冊子協会のもとに働く、日本人の有能な翻訳者たち

が日本語へ翻訳した。上記の

「有能な~」のくだりは新世界訳聖書の日本語版前置きに載っている。ここで違和感を覚えないから、エホバの証人たちはカルトに騙されちゃう。

わが家も、その騙され最たる者なんだけど。

ものみの塔の日本語翻訳者が無能な理由

自分で自分のことを「有能な」って書いちゃダメだから。有能だって思っているうちはまだまだ。ここが足りないから知識を補わなきゃ、この分野を努力しなきゃ、と考えている人間が本当に有能。

この前置きのように有能さをどうしてもアピールしなければならないのなら、実績を書かなければ何の信用も置けない。

就職や進学試験の面接と同じ。有能さをアピールする必要があるのなら

「私、有能です」と言うだけでなく、実績をアピールする。こんな書籍の翻訳を行い、賞を獲得。翻訳業に何年従事し、こんな実績を積んだ。こんな資格を保有。

実績を一切書かずに、「ただ有能」と言われても、それは読まされる側の視点の欠如した、想像力のない無能さの象徴。

聖書そのものが矛盾

それまで、一巻にまとめられた聖書はなく、ほとんどのエホバの証人は、ギリシャ語聖書(新約1973年刊行)が新世界訳、ヘブライ語聖書(旧約)の方は文語訳(日本聖書協会発行)という具合に、二冊の聖書を使っていた

「それまで、一巻にまとめられた聖書はなく」というのは、恐らく日本語でということだと思うのだが、逆になぜ一緒にしちゃった?分かれていたのは理由がある。新旧統一の神ではないから。新約の神と旧約の神は同一人物ではないということ。

元々バラバラの書簡を寄せ集めた聖書だが、新約の方はキリスト教による付け加え。旧約の方はユダヤ教やイスラム教でも聖典となっている。新約と旧約は別物と考えて良い。新約は蛇足、他宗教から見れば背教。

それを一緒くたにして、我がもの顔にしているのが、現在の聖書。

1982年に日本語版の新世界訳聖書が発行されたときに、エホバの証人はここに違和感を覚えるべきだった。なにごちゃ混ぜにしてんのさと。これはマインドコントロール状態のエホバの証人に言っても仕方のないことで、キリスト教そのモノが抱える矛盾か。

こうやってものごとを突っ込んで考えたり、情報を集めたりするだけでカルトに騙されることはないと思うのだが。

心に隙があると付け込まれ、後戻りできなくなってしまうのだろうか。


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