ものみの塔を放置できない理由、生き残った者の責任

ものみの塔というゴミだるまの焼却がこのブログの目的

前回に続いてメッセージを頂いた件です。
このブログで、私は自身の経験を元にものみの塔協会を糾弾しています。今回お問い合わせを頂いた主題は、「エホバの証人は無害で、本人たちはその活動を生きがいとしているのだから、放っておけば良いのではないか?」ということでした。

これは、何となく私にも思い当たる節があって、何を今さらこんなおせっかいじみたことをしているんだろう、と思うことがあります。

私は、両親にエホバの証人2世として、窮屈で地獄のような子ども時代を強制されました。しかし、その両親に感謝こそすれ、恨みには思っていません。同様に両親をカルトに引きずり込んだエホバの証人たちのことも恨んでいません。彼らもまた被害者です。

そもそも、ものみの塔や統治体への恨みからこんなにも攻撃しているのかと言えばそれも違います。ものみの塔や統治体も悪意の固まりではないからです。おそらく一部の確信犯を除いて。

ものみの塔は、組織を維持拡大することを目的として、無意識的に転がり続けているゴミの雪だるまのようなものです。ゴミは放っておくと腐り、公害の原因になります。誰かがゴミ掃除をして焼却しなければなりません。

ものみの塔はこの世に存在すべきモノではなく、有害なモノなので、私は世界を正当な姿に戻そうとしている。

当ブログを端的に表すとこうなります。また、

人生を棒に振る被害者が出るという点では、一般のエホバの証人は人畜無害でも、ものみの塔という組織そのものは明らかに危険で有害です。誰かが警笛を鳴らし続けなければなりません。

そのために、私はこのブログを書いています。

エホバの証人被害者だけが語れること

日曜日の朝、エホバの証人の王国会館にずらりと並んだ車を見ると、私は、いたたまれない気持ちになります。

家族と朝寝坊して遅めの朝食を食べにいったり、早起きして張り切ってどこかへ出かけたり。こんな日常を持ちえないエホバの証人が、哀れに思えてなりません。

家族内での心情の違いは、エホバの証人にとって決裂を意味します。これ以上、ものみの塔に引き裂かれる家族を増やしてはいけません。

何かを生きがいとし熱中するのは、とても良いことで素晴らしいです。生命維持以外のことに、そんなにも熱意を示せるのは、人間だけの特権です。

しかし、その熱意の対象が偽りだったらどう思いますか?しかも、真理、真理と言っている組織が偽りだったらです。そんなものに一生を捧げて良いはずがありません。

カルトの言っていることを偽りだと証明するのは難しいです。ハルマゲドンが来ないことや、神エホバが存在しないことを証明するのは不可能だからです。

あんなにもハルマゲドンという裁きの日を恐れていたのに、今となってはハルマゲドンやら楽園やら永遠のイノチやら、冗談もほどほどにしてくれ、と思えるのはエホバの証人をやめた者だけです。

ですから、被害経験者である我々が何かを語っていかなければならない。邪悪なモノが存在するのを知っていて、それから目を反らすのは許されることではありません。少なくとも声を上げる余裕がある、私のような者にとっては。

私はこのように思っています。


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