『マインドコントロール 増補改訂版』より
カルトに支配されると
人生の意思決定のすべてが、自分以外の存在の手に委ねられることになる。人生の意味や希望をいくら約束したとしても、自分で自分の人生の決定さえできないのでは、その時点でその人の人生の意味は失われていると言えるだろう。そこから先に、どんな希望があるというのだ
エホバの証人は、「楽園での永遠の命の希望とか、人生の意味は神の王国を宣べ伝えることだ」と騙される。騙された瞬間以降、その人の意思決定すべてがものみの塔様式に委ねられる。
その時点で、その人の人生の意味は失われている。自分で自分の人生の決定ができないから。その人の人生ではなくなっているから。ものみの塔に操られた人生だから。その先に、希望はない。だから、
すべてのエホバの証人は、目を覚まし、人生に意味を、色を、価値を取り戻すべき。その過程でいかに辛い現実があろうとも。家族や仲間を失い、圧倒的孤独に陥ろうとも。命を失う結果になろうとも。
というのは、どんな悲惨な結果になったとしても、エホバの証人だった現状からは改善されているから。
命を失うとサラッと書いたが、これを書くのには葛藤がある。大昔からそう思っていたし、既に何度か書いたかも知れないが、大きな葛藤はある。
やはり、命の価値は重い。本人のエホバの証人が輸血拒否で投げ捨てる命であっても、赤の他人の私の方が、そのエホバの証人の命を重く見ている。
とはいえ、ものみの塔に騙され、エホバの証人になり自己決定できなくなった時点で、人生の意味は失われている。つまり、生きているようで死んでいるにも等しい。
どんな悲惨な結果になろうとも、エホバの証人をやめて例え一瞬でも人生の意味を取り戻したのなら前進だったと言えるのだ。
エホバの証人さえやめれば・・・
一般論としてはこれが言えるのだけど、個別具体な事例になるとそうも言えない。
肉親であれば、植物状態でも生きていて欲しいと思うのが人情。ましてや、自己決定できないマインドコントロール人間でも、今晩の献立くらいは考えるし、愛憎だって抱いている。そして、いつか穏便にマインドコントロールが醒めるかも知れないという希望もある。
マインドコントロール解除のために、強硬にことを進めたり、激しい外圧をかけるのには、危険がつきまとう。逆に閉じこもってマインドコントロールが強固になったり、自ら命を絶つ結果になったり。
あと、単純にマインドコントロール野郎の相手をするのがメンドくさかったり。そんなに民間人は暇じゃない。
救出は困難な問題ではあるけれど、自分で自分の人生を決定できないエホバの証人は、人生の意味を失っていて、最底辺に堕ち切っているというのだけは事実。
人生の決定くらいはできるって?
「あんた、碇指令が死ねと言ったら死ぬんでしょ」
エホバの証人は、ものみの塔が死ねと言ったら死ぬ。輸血拒否であれ、禁令下の迫害であれ。その時点で自己決定できない人生を歩んでいる。つまり、人生の意味を失っている。そして、いつでも教団の指示で死ぬんだから、生きているように見えるだけ。死んでいるにも等しい。
半死状態になり人生の意味を失いつつ、他人の人生を奪うものみの塔の活動に組している。これ以上、堕ちるところはないぐらい堕ち切っているのがエホバの証人。そこから出ることさえ出来れば、それだけで間違いなく好転、改善、前進している。
“「あんた、ものみの塔が死ねと言ったら死ぬんでしょ」” への1件の返信