ものみの塔を糾弾すべき理由
昨日の記事で、エホバの証人脱会者は皆が口を閉ざすと書いた。私も一般生活ではエホバの証人二世という出自を明らかにしていない。バレたらバレたで良いのだが、決して自慢できる話ではないので黙っている。
エホバの証人を円満に辞めたという人は存在しない。このカルトからは、円満卒業という形での脱会はあり得ない。辞めるときに相当な軋轢を生むからだ。それがカルト。
エホバの証人を辞めた人でエホバの証人組織、宗教としてのエホバの証人に好意的な印象を持っている人は、まだものみの塔のマインドコントロール下にある。それは本質的な意味で辞めたとは言えない。
本質的にエホバの証人を辞めることができた人で、エホバの証人組織に好感を持っている人はいない。何らかの疑念や不満、違和感をもれなく抱いている。「エホバの証人がよくないものである」という認識は多かれ少なかれ持っている。
であるならば、やはりエホバの証人を糾弾すべき。「よくないもの」なのだから。
やっとこさサバイバルして今も傷が癒えない人だらけだろうし、他人がどうしようが私が口出しすることではない。よって、他のサバイバーがどうしようが私には関係ない。だから、次の言葉は私自身への叱咤として。
良くないカルトに取り込まれている哀れで愚かな者を放っておくというのは、その邪悪空間からの生還者としていかなるものか。
だから、私は、恨み、怒りといった負のエネルギーを義憤に昇華させて、ものみの塔と戦いたい。
現在、私は特に身の回りでエホバの証人被害を受けていない。そして忙しくてメンドクサイのだが、エホバの証人サバイバーの中でも声を上げる余裕のある者として、戦い叫び続けたい。
エホバの証人を続けると無駄な一生を送りますよ!と。騙されて悪の手先になってますよ!と。
お節介極まりないのだが、一旦は完全に遠ざけたエホバの証人にこちらから接触し、一人ずつ辞めさせていく。何か飛び道具的な戦法がない限り、そんな吐き気のするメンドクサイことをしていかなければエホバの証人は減らない。そして、その千里の道の先にものみの塔の崩壊がある。
時に心が折れそうになったり、もうどうでも良くね?と思ったり、現状は無被害で相対的に傷が浅いオレがこんなに恨むの筋違い?と思ったりもする。
ところが否。自身の半生を書いた自己紹介を読めば、自分の受けた傷は自分にとっては深く、ものみの塔は絶対に許せないという思いが湧いてくる。そして、私みたいな思いをする人が再生産されないように、私の成すべきことを成せという思いが湧いてくる。