コロナウイルスによる、エホバの証人布教活動の変化が示すこと

エホバの証人の布教・勧誘活動とは

私は子どもの頃、エホバの証人として育てられた。エホバの証人の親は、子どもをエホバの証人にすることを強制する。私はこれがイヤで、14才の時に親と決別、エホバの証人をやめた。

エホバの証人は熱心に布教活動を行うことで知られている。彼らはこの布教・勧誘活動のことをボランティア・伝道奉仕と呼ぶのだが、要はカモになる信者を捕まえているだけ。

この布教活動は、かつて家々を1軒1軒周るタイプのものが主流だった。聖書に

家から家へと宣べ伝える

という聖句があり、これを字義通りに守っているのだと、エホバの証人たちは誇りにしていた。

私も子どもの頃から、暑い夏の日も、真冬の寒い日も、雨だろうが雪だろうが、この布教活動に連れまわされた。家から家に周り、見知らぬ家の呼び鈴を鳴らさせられた。

この恐怖はいまだ解けず、エホバの証人をやめて20数年経つ今でも、他人の家のブザーを鳴らす夢を見る。

つい数年前まで、私の家にもエホバの証人がやって来ることがあった。私はエホバの証人の顔など見たくもないので、家に来た場合は追い返しているのだが、これはあまり良くない。

エホバの証人はそういった迫害チックなものに酔いしれる傾向がある。与えられた試練であると。世の人には理解が無く、救いの手をさらに差し伸べねばならないと信仰を強くする。

冷静に対応し、エホバの証人でなくとも幸福に生きられること、世界はエホバの証人が言うほど悪くないことを、教えてあげよう。

最近は駅前で活動しているエホバの証人

最近は家にやって来なくなり、駅前や繁華街で看板と一緒に立つスタイルが増えた。教団の宗教誌を手に持って、道行く人に声を掛けるというもの。私もやらされたことがあるのだが、恥ずかしくて仕方ない。狂気の沙汰。公開処刑。

私はこの街頭宣伝がイヤでイヤで仕方がなかった。私が子どもの頃に住んでいたのは、人口何千人という地方の過疎地。大げさに言えば、ほとんど全員が顔見知り。

週末の昼間、謎にかしこまった服装で、一番人が集まりそうな所でエホバの証人の街宣活動をしようものなら目立って仕方がない。翌週の初め、学校でいったい何を言われるか。

伝道活動をやめたエホバの証人

私はこのように、子どもの頃からエホバの証人の勧誘活動をさせられた。しかし、現在のエホバの証人はこれをやめてしまっている。布教活動に家にやって来なくなり、駅前で突っ立っているのも見かけない。

おそらくコロナウイルスの影響なのだろうが、そんな簡単に伝統ある布教活動をやめてしまっていいものなのか?

ものみの塔は、コロナについて適当な理由を付けて布教活動の方法を変え、集会で王国会館に集まることも中止している。

そもそも、エホバの証人はハルマゲドン後に復活するとされている。それならウイルスも何も怖くないはず。通常通り、神の是認を受けている活動を続ければいい。祝福された王国会館でコロナのクラスターが発生するわけがない。

私が子どもの頃、あんなに野外を布教のために歩き回らされたのに、今ではどうなっている?Zoomで終わらせちゃうとか、「家から家へと」という聖句に全く従っていない。

行動に一貫性がないのは、真理を持たない組織だから。ものみの塔の予言解釈同様に、二転三転するその場しのぎ。世情を鑑みて、伝統的な行動に変化を加えるということは、ものみの塔が偽物である証拠。

こう言うとエホバの証人は、聖句の「家から家へと」というのは、表現の一つだと言い出す。ならば、「血を避ける」や「戦いを学ばない」も表現の一つ。この辺も、ある程度は酌んで緩めるべき。命がけで輸血拒否をしたり、武道の実技を拒否する必要はない。

コロナの感染怖さに、王国会館の集会や公衆での布教を避けているというのは、輸血拒否で律義に不毛に死んでいった過去のエホバの証人たちに対して、どう説明するつもりなのだろうか?

宣べ伝えることを止めざるを得なかったエホバの証人が示す真実


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