エホバの証人のメディア戦略
『近現代日本とエホバの証人』。第四章「従順の時代」の後半部分。
本章の題材は、1970年中頃から1990年中盤までの日本のエホバの証人について。最終節では信者とエホバの証人組織、エホバの証人組織と世間との軋轢について触れられている。
この辺りは読んでいて腹立たしく、やはりこのカルトを野放しにしてはいけないと強く思う。それと同時にこのカルト教団が手強くも感じる部分でもある。
単独の信者個人を見ると、よく言えば純朴、率直に言えは社会不適合、愚か。クレバーな要素はほとんどない。しかし、組織体として見ると、組織の拡大維持・集金集客という目的に対して合理的かつ老獪な動きをしてきている。
まずマスコミ対策。輸血拒否で信者の子供が死んだ際には
マスメディアからの批判的な取材に対しては、あくまで個人信者の意思の問題であり教団の方針ではないとしており、教団レべルでの応答や露出もきわめて少ない
あくまで、輸血拒否して死んだのは個人の意思であるという立場。
「輸血したら排斥村八分にしてハルマゲドンで殺すぞ」と情弱信者を脅している真実にはキッチリふたがされている。
批判されるときは多くを語らないものの、逆に輸血のデメリットを謳い、自教団の主張をするときには
メディアを「教育する」という方針のもと、全国版・地方版の医療関係記事の記者たちと会合をもつキャンペーンも展開された
都合のいいときにはメディアを大いに利用する狡猾さを見せる。エホバの証人らしい裏表。二枚舌。ご都合主義。
話は逸れるが、輸血にいくらデメリットがあろうと、輸血しないと今すぐ死ぬという最悪の事態を避けることが優先されるべき。
輸血の危険性と目前の死の危険性とはまったく別モノ。後遺症が怖くて死んでいたら何の意味もない。エホバの証人お得意の話のすり替えで命を弄んでいるに過ぎない。
エホバの証人が利用する司法制度
あとは司法制度の巧みな利用。本書では
世界本部が欧米社会で採用してきた、いわば伝統的な方法
と紹介されている。
その経験を踏まえ、マスメディアへの露出は少なく、キャンペーンなどを通じて関係領域に働きかけ、最終的には信者を原告とする訴訟によって批判的な評価を合理的に回避してきた
これはおかしな話で、エホバの証人はこの世界の権力構造とは別の維持秩序を待ち望んでいる。神による統治。そもそも現段階では世俗の権力に対して一定の敬意は払うものの、神の組織とされるものみの塔を上位に置いている。
ものみの塔 >(大なり)世俗の権威
であるのに、エホバの証人は勝機があると訴訟で争う。
果たして、キリストはそんなことをしたか?エホバの証人が学校を退学させられた、輸血されたと。いざ裁判。カエサルよ。裁いて下さいと。絶対そんなことしないでしょ。
エホバの証人の司法利用については明日も続けます。