他の人の役に立つどころか、害でしかないエホバの証人の人生
『良心の危機』、第13章「展望」から。
いよいよ最終章なので、著者はエホバの証人の展望を予測(予言ではない)するとともに、人生の展望について下記のように書いている。
終わりに近づきつつある人生を省みて本当に何らかの満足をもたらしてくれるのはただ一つ、その人生が他の人たちのためになった度合いだということである-まずは心の最も深い部分において、それから精神的、物質的な面において。
自分の人生が他の人たちのためになった度合い。エホバの証人の場合はこれが激しくマイナス。他人に害をもたらし、社会に迷惑をかけた。
本人たちが人生を省みることなどなくとも、エホバの証人は生きながらにしてそのリターンを受けている。
家族を失い、精神を病む。エホバの証人の人間関係を維持するには、真実を曲げ続けるしかない。そんな人生に一遍たりとも満足はできないだろう。そして、復活とか永遠という妄想教義に逃避する。
踏み絵を踏むのを許されるエホバの証人、許されないエホバの証人
エホバの証人が生き直すには、幻滅のショックを受けるしかない
思い込みや幻想の中に「知らぬが仏」式に生きることを勧めるのが親切だとは思わない。遅かれ早かれ、幻想は現実に直面にする他ない。これに長くかかればかかるほど、幻滅のショックは大きくなり得る。
現実に直面して、幻滅するショックから目をそらし続けているのがエホバの証人。人間は復活もしなけりゃ、永遠の命なんてない。エホバの証人たちは、甘い言葉に騙され、人生全てを無駄にした。そして、他人をまきこんだ者には、他人の人生を圧倒的に損ねた罪が伴なう。
この現実を受け止めれば、激しい幻滅のショックを受ける。受け止めきれないかも知れない。だか、全てのエホバの証人がこのショックを味わい苦しむべき。
エホバの証人である限りは、その人の人生・活動は全て無駄であるだけでなく有害。生きている意味も価値もない。
であれば、いかに幻滅のショックが大きかろうと、人生に何らかの意味・価値を持たせるためには、エホバの証人をやめるしかない。
激しい痛み・苦しみを味わい命を落とすことになろうとも、エホバの証人として毒を撒き散らし続けるよりはマシ。
聖書にも書いてある。蒔いたモノは刈り取れと。
残り少ない人生であろうと、例え死の床にあろうとエホバの証人が自分の人生に僅かな価値を残すとすれば、エホバの証人をやめるしかない。
そうすれば、その時点から人生をやり直せる。遅すぎることなどない。本章もこう書いている。
「今日という日は残された人生の最初の日」
“エホバの証人(JW)の人生の展望とは?今日から生き直し” への2件の返信