エホバの証人11才、初「割り当て」の前に
私の初「割り当て」の晩に流れた贖いの血。
11才の少年の日々。砂山で遊んで砂だらけになった私は家に帰る。しかし今日はエホバの証人の集会の日、しかも初の割り当て。砂だらけになるまで遊べば、両親に怒られるのは目に見えている。
とはいえ、これが子供ながらの私のバランスの取り方だった。エホバの証人の子、カルトの子として窮屈極まりない日々。学校でも恥ずかしい思いと苦労のオンパレード。
そして、その日の晩はやりたくもない初の割り当て。数十人の信者の前で自作の宗教話をしなければならない。その前に、一旦無心で遊んで心身をリセットしたのだった。
この息抜き方法が限界に迫った数年後、私は人生そのものを終わらすか、エホバの証人をやめるかの選択を迫られる。
とりあえずその日は、親に怒られる前に砂だらけの服を払い、エホバの証人の集会に出かける服装に着替える。
そこで思い出したのは砂だらけになった靴。割り当てのために上がる壇上へ、砂を引きながら向かうわけにもいかない。靴の中の大量の砂を出すことにした。
エホバの証人の初割り当てという罪の贖いのために流れた血
玄関のドアを開けて、家の前で靴を逆さにする。そのまま靴を振り中の砂を出す。そのとき、眼下を何かが走り抜けていった。小型の物体。
それは、私に似ておっちょこちょいで走り出したら止まらない。我が家の愛犬だった。小さな愛犬は振り向きもせず道路に飛び出していった。
いつも「ドアをきちんと閉めろ」と両親に言われていた。我が家の室内犬は外が大好きで、ドアに隙間があれば一目散に外へ飛び出していく習性だった。
家の前の道路を横断しようと疾走する愛犬。その愛すべき生命に覆いかぶさるように視界の端から車が飛び込んでくる。めったに車など走らない田舎道。たまに来たと思ったら、今回みたいな猛スピード。
車は一瞬のうちに視界を走り抜けていく。その向こう側、無事に走り抜けた犬の姿を私は期待する。しかし、期待虚しく車が走り去ったあとには愛犬か横たわっていた。
その微動だにしない姿が怖くて私はすぐに駆け寄れなかった。父を呼びにいくのがやっと。
父と一緒に犬に近づくと、愛犬は既に息絶えていた。
一人っ子だった私の兄弟同然だった飼い犬。愛犬が死んだショック。
「集会に行きたくない。割り当てを果たしたくない」そう私は両親に訴えた。しかし、そんな意見は聞き入れられず、呆然としたままエホバの証人の集会に連行された。
そして悄然と初割り当てを果たす。のちに経緯を知ったエホバの証人の大人の信者たちから褒められ感心される。マインドコントロール信者たちの妄信を強める結果になった。罪深い行い。
私の初割り当てという罪。その直前に流れた相棒の血。それが偶然だったのか、私の罪の贖いだったのか。
愛犬の死の整理がようやくでき始めた頃。父に聞いた。またあの犬の相棒と会えるのかと。エホバの証人は、正しい”人間”は復活するという教義をとなえている。回答は予想通りだった。
「犬は復活しない」
エホバの証人よ。人間だって復活しないぜ。
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