元宗教2世の提言:子どもを学校から連れ去る“信仰”に、制度は加担していないか

エホバの証人の子どものために制度がなすべきこと

昨日までの記事の続き。エホバの証人の子どもが学校を休まされて、宗教行事に連行される件。

エホバの証人の毒親が、平日に丸一日かかる宗教行事に出かけるので、小さな子どもは問答無用で強制連行されることになる。

「親の信仰の自由」と「子どもの教育を受ける権利」が衝突したとき、社会はどちらを守るべきか?読者の皆様はどう考える?

「制度はどこまで介入すべきか?」という核心。これは単なる家庭の問題ではなく、公教育と児童福祉の制度が試されている問題。

エホバの証人の大会への子ども連行に制度が介入すべき理由

義務教育を放棄させられ、エホバの証人の大会に子どもが連行される。そこに制度は介入すべき。なぜなら、それは“家庭の自由”ではなく“子どもの権利”だから。

  • 義務教育は「親が行かせたいかどうか」で決まるものではなく、子どもが受ける権利として保障されている。
  • 児童福祉法も、子どもが健全に育つ環境を守るために、親の信仰や家庭の事情を超えて介入できる仕組みを持っている。
  • つまり、「家庭の自由」や「信仰の自由」が子どもの権利を侵害しているとき、制度は介入すべき義務がある。

制度が見逃してはならない“構造的な問題”

  • 問題は「たまたま一人のエホバの証人の親が子どもを宗教行事に連れて行った」のではなく、組織的に子どもを動員し、学校を休ませることが常態化している点。
  • これは、個別の家庭指導では解決しない。教育委員会、児童相談所、場合によっては文科省レベルでの対応が必要。

「家庭の自由に口を出すな」?いやいや、子どもの教育を受ける権利は、親の信仰よりも優先されるべき。

宗教行事のために学校を休ませることが、組織的に行われている。 しかも、子ども本人の意思は無視されている。意思表明が困難な年齢の子どもが連行されている。

これはもう、家庭の問題ではなく、社会の問題。

教育委員会は黙っていていいのか?

児童相談所は「家庭の自由」として見逃していていいのか?

文科省は「信教の自由」の名のもとに、義務教育の組織的な空洞化を放置していいのか?

施設を貸し出す側に責任はないのか?

制度が介入しないのなら、制度が機能していないということ。役立たずってことよ。

子どもの教育を守るために制度が介入できる理由

「義務教育 vs 信仰の自由」という構図において、制度がどこまで介入できるのか?以下に法的根拠を整理。

  1. 日本国憲法 第26条(教育を受ける権利と義務)
    「すべて国民は、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」
    ・親には「教育を受けさせる義務」がある。これは信仰よりも優先される憲法上の義務。
    ・子どもには「教育を受ける権利」があり、これは人格の完成に不可欠な基本的人権とされている。
  2. 学校教育法 第16条(就学義務)
    ・保護者は、子どもを小学校・中学校に就学させる義務を負う。
    ・満6歳から15歳までの9年間は、保護者に就学義務がある。
     ・宗教行事のためにこの義務を組織的・継続的に妨げることは、法的に正当化されない。
  3. 児童福祉法 第1条・第2条(子どもの最善の利益)
    「全て児童は…その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する」
    ・子どもの教育や健全な発達を妨げる環境(たとえば、宗教行事のために学校を休ませることが全国的・組織的に指示されている状況)は、児童福祉法の観点から問題。
    ・児童相談所は、こうした状況に介入する法的根拠と責任を持っている。
  4. 日本国憲法 第20条(信教の自由)
    「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」
    ・信教の自由は保障されているが、それは「信じない自由」や「宗教行事に参加しない自由」も含む。
    ・子どもが親の信仰によって宗教行事に強制的に参加させられ、学校を休まされる場合、この自由が侵害されている。

まとめ:制度が介入すべき理由

教育を受ける権利は、信仰の自由と並ぶ重要な人権。子どもにとっては「教育を受ける権利」こそが、将来を切り開く土台。だからこそ、親の信仰がその権利を侵害するなら、制度は介入しなければならない。

未来を潰されてきた元宗教2世からの提言です。

教育委員会は、エホバの証人の宗教行事による学校の欠席が毎年常態化していることに対し、実態調査と指導を行うべきである。

児童相談所は、宗教行事への強制参加が子どもの意思を無視している場合、子どもが意思を示すことが困難な場合(未就学児の場合)、子どもだけでの留守番が困難な小学校低学年以下の場合などに、介入の対象とすべきである。

文部科学省は、義務教育の空洞化が宗教組織によって組織的に進行している現実を、いつまで見て見ぬふりをするのか。「信教の自由」を理由に沈黙を続けるのなら、それは「教育を受ける権利」よりも「宗教組織の都合」を優先しているということ。それは国家による教育放棄であり、未来への背信であり、宗教虐待への加担である。

会場を貸し出す側は、平日にエホバの証人の大会を開催すれば、こうした問題を抱え込むことになる。子どもの教育と人権を軽視するエホバの証人の宗教行事に、公共の場や組織が加担することがあってはならない。


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