暴君、エホバの証人
『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する』、5章『宗教と「資本主義経済」の密接な関係』の末尾。
信仰は個人のものであるかもしれないが、宗教というものは必ず共同性を伴っている。個人だけで信仰活動を続けていくということはほとんどない
わけで、
宗教の単位は家族である
という副題がこの章にはついている。
宗教をやっていれば、家族は巻き込まれる。私も宗教2世だから巻き込まれた側。
親は当然のように巻き込んできたのだが、その親自身はどうなっていたかというと、実家の先祖代々の仏壇とか神棚を放棄して、新しく宗教を始めている。
家族単位の宗教を放棄。その立場で、自分の子どもには自分で選んだ宗教を押し付ける。これは暴君すぎやしないか。その横暴を体罰を主とする「懲らしめ」という暴力で強要するのがエホバの証人。
信仰を抱くということは・・・
信仰を得るという行為は、特定の宗教組織のメンバーになることを意味する。そうなると、信仰はあくまで個人のものとは言えなくなってくる
大概の場合、信仰するということは何らかの宗教組織に属するということになる。
組織に属すれば、当然その組織の影響を受ける。朱に交われば赤くなる。就職して何年も経つと、大抵の人はその会社の人間っぽくなってくる。
宗教組織の場合は特にその傾向が強い。人格や精神を磨こうとする宗教の性質上、信者はその組織の色に染まりやすい。だったら、信仰する前にその組織のことを良く見るべき。その宗教組織の人々を良く知るべき。
貧乏な奴が多かったり、低学歴な信者ばかりだったり、性格に難ありな人だらけだったり、心身不調な人が多かったり、フリーターばっかだったり。生活保護受けている人が多かったり。
そんな組織に属すれば、自分もそうなるということ。それで良いのかと、信仰抱いちゃう前に一旦踏みとどまろう。そして、信仰を既に信仰を抱いちゃっている人は、信仰を抱く前の自分の心境を思い出してみよう。
はたして、
フリーターになって、貧乏になって、生活保護受けたくて、その信仰を抱いたのか?
心身を不調にしたくて、その宗教に入ったのか?
子どもを低学歴かつ性格をひねくれさせたくて、その信仰を持ったのか?
違うでしょ。何かもっと良いことがあると思ったからでしょ。
「こんなはずではなかった」と思うのなら、引き返すべき。間違った信仰を持っちゃったんだから。少なくとも宗教に当初求めていたモノは達成されていないのだから。