エホバの証人(JW)の本質、明石覚醒の原因とは?

エホバの証人の本質は「騙し合い」

昨日の記事の続き。戦時中に収監された明石順三、釈放後にものみの塔に違和感を抱く。その気付きの原動力は何だったのか?

  • ものみの塔が変わった
  • 本人が変わった

このどちらか、もしくは両方だが、私は後者、明石本人が変わったのだと考えた。

ものみの塔が変わったわけではない。会長が小粒になり、組織化が進められ信者の束縛が強まった。それは表面的なモノで、本質は当初から全く変わっていない。

聖書を独自の思い込みで解釈して、気持ちのいいくらいにハズれる予言を捏造する。そして、大した反省もなく新たな思い込み解釈で聖書をこねくり回して予言を出現させる。

自分が思い込んでいる間は信じない者を敵視するほどに自信満々。ところがハズれたあとは「信じるか信じないかはあなた自身の問題でした」と、自信満々だった事実は忘れちゃうのか封印するのか。

この繰り返しで、その時々で表面的な信仰の対象が変わるだけ。エホバの証人が信仰するのは、神の仮面を被った思い込み解釈だったり、組織そのものであったり、組織の規則であったり、組織の権威者だったり。

本人たちが何を信じているつもりで、実質何を信じているのかは些細な問題。エホバの証人の本質は「騙されている」ということ。そして騙された側がそれを信じ込みさらに騙されてる人を増殖させる「騙し合い」。これがエホバの証人の本質。

明石覚醒の原因は極限体験とものみの塔情報の欠乏

明石順三もこの「騙し合い」のただ中にいた。米国で騙され、日本に戻り多くの人を騙した。ではなぜ明石は「騙されている」と気付いたのか?

ものみの塔が組織主義、戒律主義に振れ始めたからという理由ではない。前述の通り、それは表面的なモノに過ぎない。

ただ単に組織第一、戒律第一が非聖書的だからエホバの証人は偽物である。よって自分は「騙されている」と、明石が結論に至ったとは考えにくい。

なぜなら、ものみの塔は発足の当初から非聖書的だから。終末の日をズバリ言い当てようとする行為そのものが非聖書的。現在でも同様。終末の日が近いと部外者が茶々を入れるのは非聖書的。

根幹の終末特定論からして非聖書的なのに、組織化されたとか信者の束縛が強まったというのはあくまで表層的な材料に過ぎない。

それでは何が明石を気付かせたのか?それは

思想犯としての収監という極限体験ではないだろうか。ものみの塔情報が遮断され、ものみの塔情報に欠乏する状態。

戦時中の思想犯に元凶のものみの塔本の差し入れなど認められるはずがない。収監中は一切のものみの塔情報を断たれたことになる。

こうして、一旦はマインドコントロールなのか思い込みなのかをリセット。リセットしつつも、ものみの塔情報に枯渇した意識はある。心では求め続ける。真理を。そして、ものみの塔を美化・昇華させていく。

そこに再度湯水のようにものみの塔情報が流れ込むのだが、一旦リセットされ美化・昇華されていた真理とは違う。「何じゃこりゃ?」と「まさか、騙されていた?」とようやく真理に到達。

この明石覚醒の仮説を現在のエホバの証人にも適用できないものだろうか?


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