エホバの証人(JW)組織の本質とは
『良心の危機』、付録部分から。
著者がエホバの証人(JW)組織を排斥された後、それに抗して書いた手紙より。
エホバの証人に求められる態度は
人の良心は「統治体が却下することができる」
統治体の言うことなら何でも「オウム返しに繰り返している」人間
がエホバの証人的な優秀基準。
統治体を崇めることが要求されるエホバの証人は
多くの教会関係者が、自分たちが「母なる」教会と呼ぶ教会の指示することをすべて鵜呑みにして受け入れていた過去何世紀もの歴史
をなぞっていると言える。
エホバの証人とは、
単に人間が造り上げた基準、つまり本当は霊感を受けておらず、神の言葉の裏付けもないのに神の基準だといわれている基準に従っている
組織。
ここまで理解すると、エホバの証人に関わることが無意味で時間の無駄、人生の汚点となることは明らか。救いの経路などではあり得ない。
ここまで理解していた著者が、エホバの証人組織からの排斥処分に対して再審を上訴していたのはなぜか?
エホバの証人的腐臭を放つ人間関係を整理する
エホバの証人組織から排斥になると、組織残留者からは徹底的に忌避される。排斥者の人格、それまでの友情などは一切無関係。家族でも同様。家族の絆でさえ、エホバの証人の排斥処分によって断ち切られる
エホバの証人は人間の集団である統治体を崇める組織崇拝者なので、排斥に対する決まりも守ろうとする。すると排斥者はそれまでのエホバの証人の人間関係を完全喪失。
これが痛いので、著者も排斥処分の取り消しを望んだ。しかし、
マインドコントロール下とは言え、友情、家族の愛情よりも組織の決まりを上位に置いてしまう人間など、こちらから願い下げ。排斥者に対する態度で、その人間が我々の今後の人生において相手にする価値があるかそうでないかが測れる。
だから、排斥なんか怖くない。むしろウェルカム。
とは言え、エホバの証人のような腐った組織からでも排斥と言われると、人間関係喪失問題を度外視しても若干はショック。腐臭を放つ組織から、ダメだしされたような、ダメな奴にダメと言われたような感じ。
腐った組織の基準が腐っているから、腐り基準に適合しないのは当然なのだが、何だか癪に障る。腐った野菜しか売っていない八百屋から「お宅の野菜はうちじゃ扱えないね」と言われた感覚。腐り八百屋が偉そうに何言ってやがると。
であれば、おススメは自分から組織側を忌避すること。エホバの証人やめますと自ら宣言。個人の友情や愛情より組織を優先するエホバの証人的腐臭を放つ人たちは近づかないでと。自分から宣言する。エホバの証人用語で言う断絶。
ダメ組織には、先にダメだしした方が良い。自分の人生から腐り組織を切り捨てる。同時に、エホバの証人的腐臭を放つ人間を自分の人間関係から締め出せる機会でもある。
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