子どもの命を差し出すものみの塔狂信者、エホバの証人

まるで死神の如く、病院に集まるエホバの証人

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』を読了。

出血多量の重症で病院に運ばれたエホバの証人の少年。信者の両親がエホバの証人の信条により輸血を拒否。輸血すべきか否かの狭間で悩む父親に対し、病院に駆け付けた信者がこう言う。「第十一章 説得」より。

あなたの意思にお任せします。自分でお決めになって下さい。それが信仰というものなんです。そうやって強くなっていくんです

強くなっていくというより、マインドコントロールを深め、無自覚、無感覚になっていく。親・大人・保護者としての自覚を失い組織の言いなりになる。子を失う痛みすら薄れていく。

エホバの証人たちは、「輸血を拒否して子供を死なすか否かは自分で決めろ」と言いつつ、大挙して病院に押しかけプレッシャーをかける。輸血をすれば、戒律違反になると。そして、組織の掟を破ればどうなるか分かっているなという無言の圧力。

そうしてエホバの証人の少年は亡くなった。

エホバの証人の信者たちが病院に駆け付けているのは、無論心配して、何らかの助けにならんとして。さらに、無輸血対応する病院への転院という目的も。

しかし、本事件の結果から鑑みると、エホバの証人たちは第一の目的として輸血を拒否させるために病院に駆け付けることになった。

エホバの証人が輸血が必要な状態になると、輸血を拒否して命を落とさせるために、信者たちがわらわらと病院に集まってくる。まるで死神。

親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

子供の命を差し出す狂信者、エホバの証人

「生-あとがきにかえて」の部分で、筆者はこの事件を本書のかたちで発表した理由を下記のように述べている。

マスコミによって喧伝された二つの点-荒木さんが、生きたいと叫ぶ大を、信仰の押しつけにより見殺しにした、という点と、エホバの証人たちが通常の人間からはかけ離れた狂信者たちの集団である、という点は、正さなければならないと思ったから

あれ?いったい何を正すの?

信仰の押しつけで子供を死なせたのは紛れもない事実。周りの大人、特に両親が信じるものを否定できる子供は少ない。よって、この場合、本人の意思は親に押しつけられたもの。つまり、保護者たるべき親が信仰を押しつけ、少年を見殺しにした。

そして、教義のために、自分だけでなく子供の命までも捨てることのできるエホバの証人は、まさに狂信者。

私の頭の中に特大の?を浮ばせて、本書はさらに続く。

この本をお読みになった方ならもう十分理解していただけたと思うが、大の死は、ある意味では、父母と、自分を育んだ宗教に殉じた死であった。

この本を読んでも理解できなかった私は読解力が欠如していたのかも。父母に殉じるなんてのは、激しく通常の現代人の営みからは乖離している。戦国時代じゃないんだから。ましてや殉教なんて、狂信者のそれに違いない。

さらに本書は続く。

証人たちは常人からかけ離れた狂信者などではなく、私達と同じように、悩み、惑いながら懸命に生の選択を積み重ねてきた人達だった。彼らは、彼らの生の文脈の中でどうしようもなく信仰を選びとっている

エホバの証人たちは、もともとは普通の人間だったのだが、不運や自分の甘さにより、どうしようもなくものみの塔を信仰した。そして、子供の命まで投げ出す常人からかけ離れた狂信者になった。


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