エホバの証人の「自己目的化」、王国会館に集うことが目的

エホバの証人の目的とは?

昨日の記事で、エホバの証人組織(ものみの塔協会)の「自己目的化」について書いた。自己目的化とは、当初は目的を達するための手段だったもの、それが時を経て、その手段自体が目的化すること。

実は、エホバの証人組織だけでなく、信者のエホバの証人も自己目的化している。

では、エホバの証人の目的は何か?

それは「永遠の命」。このご利益欲しさに全世界のエホバの証人は暴走人生を送っている。

この「永遠の命」、設定にだいぶ無理がある。ちょっと考えたら、選ばれた人間だけが「永遠の命」をゲットして地球で永遠を謳歌するなんて、空想夢想も良いところ。中学生でも覚える違和感。

それなのに、大の大人が、しかも思慮深く賢く人生の知恵・経験が豊富なはずの年配の信者がエホバの証人に多いというのは、カルトの不思議。人間の陥る思考の無限回廊、迷路、落とし穴。

聖書には「人間が地上の楽園で永遠に生きる」なんて書いていない。「永遠の命」が欲しけりゃ、新薬の研究でもした方がいい。

エホバの証人の「自己目的化」

実は、一部のエホバの証人たちは無意識化では分かっているのではないだろうか?

究極の目的「永遠の命」は叶わないと。「永遠の命」は、ものみの塔協会の史上最大のブラックジョークであると。

その上で、「永遠の命」ゲットのための手段であったエホバの証人活動が目的と化している。

王国会館に行くこと、エホバの証人だと家族に嫌がられ、ご近所に後ろ指さされることが目的と化している。

日曜日になればエホバの証人の集会に行き、非信者の家族に会えば、相手が嫌がるのを承知で宗教を押し付ける。冠婚葬祭があれば、席を外し親戚に嫌な顔をされる。これらの行動すべてが既に目的。

行動を変えるのが困難というのもあるが、「永遠の命」というご利益より、エホバの証人活動を行って、信者間で馴れあったり、一般社会と軋轢を生む。この活動そのものがエホバの証人の目的と化している。

エホバの証人の目的、王国会館で集うこと

2022年4月、コロナ禍を縫って王国会館での集会が一時再開された。(2022年中にフルリモート集会に戻ると予言しよう。ハズしたら大晦日に詫びます。私は某協会とは違うので。覚えていたら。)

リアル集会の再開初日、王国会館の入り口で感極まって号泣していた信者がいたという。これなんかまさにそう。王国会館で集うという、「楽園での永遠の命」への手段が目的と化している。

リアル集会の一時再開。歓喜の涙はそこでなく、楽園入園にとっておけよ。楽園こないからって王国会館での集会一時再開で号泣って。これが手段の目的化。

別の可能性として、王国会館での集会に参加するのが嫌で泣いていたのだとしたら。「ZOOM集会じゃないとっ!イヤー!王国会館イヤー!」って。

何かこの人と意見が合いそうなんだけど、それなら来るなよ・・・。取り乱すほどに王国会館での集会が嫌なのに、それなのに、それなのに王国会館に来ちゃった。

心清らかに、心安らかにという、宗教活動のご利益欲しさ以外のもうちょっと健全な目的。その目的を見失い、王国会館で集うという手段が目的化。結果、ご乱心という矛盾。これもエホバの証人の自己目的化の弊害か。


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