何とも残念な教育者の言
こども家庭庁の研究事業、「保護者による宗教の信仰等に起因する児童虐待に関する調査研究」報告書。第5章、学校調査。
問12.保護者による宗教の信仰等に起因すると推察される虐待への対応における課題。
「信教の⾃由」と⾔われると、学校はなかなか何も⾔えない
公的な機関である学校が、虐待にあたるということで、宗教の⾃由を制限する⾔動をとることへの不安は常にあるのではないか
教育者なんだから、頭使えよ。宗教虐待Q&Aを読めば、「信教の自由」の壁はある程度越えられる。
教育者の大人が感じる不安と宗教虐待を受けている子どもの不安、どちらがより大きく、どちらがより本人の人生に与える影響が大きいか、少しは想像して欲しい。
宗教に起因しているか判断しにくい
判断しなくていいから、粛々と対応すればいい。そもそも、判断しにくいのは何も調べていないから。子どもに何も聞いていないから。子どもに向き合っていないからでは?宗教起因かどうかなどすぐに分かりそうなものだが。
分かったところで逡巡するための言いわけが増えるだけだから、判断しにくいならしにくいまま対応すればいいのではないか?
社会的に困窮したり、精神的に不安を抱えたりしたことが、宗教に関わるきっかけになる場合があり、学校現場だけでは対応が難しいと感じたことがあった
この回答者は、
社会的な弱者や、いわゆる情弱、情報的弱者が宗教によってさらに蝕まれる構図をよく理解している。それならば「対応が難しい」なんて自己防衛的な発言でなく、救済に向かおうとするのが人間として正しい在り方。
教育者にはそういった正しい姿を子どもたちに見せて頂きたい。
宗教にすがったところで、困窮や精神的な不安は解決しない。
困窮を解決するのは公的機関への支援の要求であったり、専門窓口への相談。そして、可能なら労働。宗教ごときにできることは現実逃避であったり目先の救済にすぎない。
精神的な不安も同様に専門家や医療機関にしか救いはない。占い師や宗教が精神的な不安を根本的に解決できるわけがない。現実を歪めて見せられ、当面の不安が解消したように感じさせられるだけ。問題は余計こじれる。
教師が児童相談所へ通告することは、エホバの証人2世にとって救いに
続いて、第6章、当事者(宗教⼆世)調査。
虐待と気づいたきっかけについて、当事者のひとりは次のように回答している。
⾃分の中の常識として刷り込まれていたことをおかしいと⾔ってもらうことで、⾃分でもおかしいと思えるようになり、⾃分が我慢しなければいけないことではなかったと思えるようになった
せめて、教職員にはこの程度の干渉はして欲しい。
教師は、宗教を理由に一律に学校の行事を見学しないといけないことは「おかしい」と言って欲しい。見学するかしないかは、自分が「参加したいか、参加したくないのか」で決めれば良いし、見学しなかったところで、神の力みたいなおバカな見えない力によるペナルティを被ることなどない。そうハッキリ教えて欲しい。
真実、現実を子どもに教えることが教育者としての務め。