はかない人生の、本当の意味とは
私はほぼ生まれながらにエホバの証人の2世信者として育てられた。幼稚園や保育園で幼児教育を受けることなく、母に教団の布教活動に連れ回される幼児期を過ごす。
幼児期に体を動かしたり歌ったりという機会が無かったため、私は運動が全くできず、音楽的な才能も皆無だった。集団生活にもなじまないまま小学生になる。
音痴でスポーツが全く出来ないということが、私は嫌で仕方がなかった。思春期になればなおさら。自分がエホバの証人2世であることと同じくらい、体育や音楽が出来ないこと、絵が尋常でなく下手なことが嫌だった。
しかし、熱心なエホバの証人だった両親は、そんな私の悩みなど気にも留めなかった。スポーツがダメでリズム感が皆無でも良い、エホバの証人の活動さえしっかり行っていればいい、と考えていた。
理由は、教団の言いなりになることで、ハルマゲドンを通過し楽園で永遠の命を得ることが出来ると信じていたから。心の底からただの一つも疑うことなく。これがカルトによるマインドコントロールの最終形態。
この世の終わりが近いのなら、やらなければならないことはエホバの証人活動などではない。自分の心に沿って本当にやりたいことをやらなければならない。それが、限りある命に意味を持たせる方法。エホバの証人だらけの世界で、だらだらと永遠に生き続けることには、なんの価値もない。
私は14才のときにこの考えに至り、エホバの証人をやめた。
悲しいエホバの証人の親子関係
しかし、小学生の頃の私はそんな風に人生の意味を考えることができなかった。エホバの証人2世であるがゆえの禁止事項の多さ、体育や音楽・図工が出来ないことが、ひたすら嫌だった。
目の前の苦行に耐えつつ、いじめのターゲットにならないよう処世術を磨く日々。目立たないように、しかし弱みを見せないように。
そんな少年時代の私が、とあるエホバの証人の野外集会でホームランを打つことになる。野外集会とは、エホバの証人の集会+レクリエーションの場。エホバの証人の子どもにとっての唯一の楽しみ。
短縮版の集会が終わり、待ちきれずにエホバの証人の子どもたちで野球を始めた。私が初球をフルスイングすると、ボールにジャストミート。遊びの場を待ち焦がれた、私の気持ちを表すかのように、ボールは遠くどこまでも飛んでいく。
ところが、私の打ったホームランボールは、運悪く昼食の準備をしていたエホバの証人信者たちのど真ん中に突き刺さった。軟式でも、野球のボールはかたく、ガラスくらいは簡単に割れる。信者の誰かがケガをしてもおかしくない状況だった。
結果、長老という信者の責任者的立場だった父に、私はしこたま怒られた。このときの悲しさと違和感を、私はいまだ忘れることができない。他の信者がケガをしたらどうする?親の顔を潰すな!というような怒られ具合。
私は父にほめて欲しかっただけ。スポーツが苦手だった私が、こんな大きなホームランを打てるようになった。ただそれをほめて欲しかった。しかし、そういう普通の親子関係を望むことは、エホバの証人家族にとって無理な話だった。
エホバの証人の親がすべきこと
狂信的なエホバの証人だった両親は、私の本当の願いに耳を傾けることなど一度もなかった。常に、子どもの思いよりも上に、エホバの証人の教理が置かれていた。何とも悲しい親子関係。
エホバの証人の親が子どもにしてやるべきこと。するべきこと。自らがエホバの証人をやめて、自分の生の目で子どもを見つめること。エホバの証人の戒律というフィルターを通してでなく、自分の目で子どもを見る。
そうすれば、子どもの本当に望むこと、子どもの考えていることが、少しでも見えてくる。それ以上、何が必要だろうか?素の子どもを見つめ、認めることが出来れば、それでいい。
エホバの証人の戒律を押し付け、子どもを苦しめ、本来の子どもらしさを損なわせるくらいなら、永遠に生きる必要なんてない。
エホバの証人の親がすべきことは、まず自分がエホバの証人をやめること。当然、子どもに宗教を押し付けることもやめるべき。そして、自分自身の目で子どもを見つめる。どんな子どもにも良いところがたくさんある。
“父親にほめられたいという、エホバの証人2世の叶わない願い” への1件の返信