エホバの証人の集会、非論理展開で信者の思考を誘導する

互いに愛し合わない、エホバの証人

エホバの証人の週末の集会テキスト(2024/1/15-21)から。「兄弟姉妹を心から愛することは大切」という記事。

組織愛や自己愛に満ちたエホバの証人が何を言っているのか意味不明なのだが、とりあえず、いつも通りに記事内の矛盾を指摘しておく。

互いに愛し合うことが大切なのはどうしてでしょうか。何よりも,それは私たちが本物のクリスチャンである証拠になるからです

ということは、

教団からの排斥・断絶者を忌避するエホバの証人の態度は、クリスチャンである証拠にはならない。兄弟姉妹より、組織を愛する者の態度。

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「神を愛する人は,自分の兄弟も愛さなければなりません」

という聖句を引いて

兄弟姉妹を愛するなら,神を愛していることになります

と書いているのだが、こういう非論理的内容を素通りするのが、エホバの証人のものみの塔研究。組織の言いなりになる奴隷の思考回路。

エホバの証人は「AならばB」であれば、常に「BならばA」だと思っているのだろうか。

“AならばB”が成り立つとき、それはAが成り立つときに必ずBも成り立つという関係。しかし、”BならばA”が成り立つかどうかは別問題。Bが成り立つとき、Aが常に成り立つわけではない。

例えば、A: “雨が降っている”、B: “地面が濡れている”とする。AならばBは成り立つが、BならばAは成り立たない。なぜなら、地面が濡れている場合でも、雨が降っていない可能性もあるから。

「兄弟姉妹を愛するなら,神を愛していることになります」をこじつけるために、下手な例えが続く。

心臓と体のほかの部分には深い関わりがあります。それで医師は,手首の脈を測ることで,心臓の状態についてある程度知ることができます。愛についても似たようなことがいえます

兄弟姉妹への愛を確かめると,神への愛の強さについていくらか知ることができます

神への愛を心臓に、兄弟姉妹への愛を手首の脈に例えているのだが、脈で心臓の状態が知れるのはある程度、というかほんのちょっと。精密検査しとけよ。

「兄弟姉妹を愛するなら,神を愛していることになります」と断言していたのに、神への愛の強さを知れるのは「いくらか」。ちょっと減ってきた。

もし兄弟姉妹に対する愛が弱まっているなら,神への愛も弱まっているのかもしれません。逆に,仲間に対していつも愛を示すことができているなら,それは神への愛が強いことの証拠といえます

ここでは「神への愛も弱まっているのかもしれません」から、「神への愛が強いことの証拠といえます」と断定へ。誘導しつつ非論理のまま断定する。このようにしてものみの塔は、信者の思考を誘導している。

そもそも、心臓と手首の脈は物理的につながっているけれど、神と信者はまったくつながっていないのだから、例えそのものが成り立っていない。まず、神の存在を証明しろよ。妄想なんだよ。


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