エホバの証人の神権の不在
『近現代日本とエホバの証人』、第三章「不確定の時代」前半より。
1949年、エホバの証人のギレアデ学校を卒業した宣教者が日本にやってきた。ギレアデ学校とは、灯台社の明石順三によって
「規格品的」な「信者獲得運動」
と批判された宣教者の養成課程。
開設当初に強調されたのは、「聖書そのものの研究」と「神権組織」であった
この「神権組織」というのがエホバの証人の存在の根拠なのだが、エホバの証人組織が神権を所有している証拠は一切ない。神権の所有を証明できるエホバの証人はいない。単なる自称「神権組織」であり、信者たちの思い込みによる妄信がそれを支えている。
偽神エホバという偶像を掲げるものみの塔、偶像崇拝者のエホバの証人
エホバの証人の宣教者、その人格が低俗である理由
神権組織と宣教者について、本書ではエホバの証人脱会者の談を加えて考察している。
神権組織に関する認識が未だ外挿的なレベルにとどまっている宣教者を介在していたからこそ、神権組織の向こうにエホバ神がいるという組織観を内面化できた者もいた
というのが米国から来た宣教者と接する機会のあった日本人信者の状況。この当時の日本人信者の認識には三つの間違いがある。
- 宣教者の人格は低い
- エホバの証人は神権組織ではない
- よって組織の向こうにエホバ神はいない
2、3は常々本ブログで書いているとおり。エホバの証人は騙されているということ。1についても騙されていることにつながる。日本人のエホバの証人信者は、宣教者の人間性が素晴らしいと思い込んで、騙された。
米国から来た宣教者でなくとも、布教に来た信者の個人的資質に惹かれてエホバの証人に足を踏み入れてしまう者も多い。個人の信者はともかく、宣教者集団の人格の低劣さをここで指摘しておく。
宣教者のモチベーションについて、元信者はこのように語っている。
神さまのことをみんなに伝道して知らせてあげたい、でも同じやり方で伝えないと、エホバ以外にも神がいると誤解させてしまうから、組織のやり方に従う
宣教者たちは(組織に服従しつつも)聖書を第一にする本来のクリスチャンだと、日本の信者たちには見えた。それが騙しの入り口。宣教者は
便宜的とはいえ神権組織という論理を抵抗なく受け入れた
便宜上、組織を使用していた。建前として組織に従っていた宣教者。宣教者は神の言葉を広めるという個人的な美しい目的のために、便宜的に組織を利用しているつもり。しかし、その時点でエホバの証人組織の下劣な部分に倣っている。
エホバの証人組織は信者の効率的な統治搾取という便宜のために、神権組織という建前をとっている。宣教者も建前のために本質をごまかすという点ではやっていることは同じ。
神の目の前で便宜上何とか・・・ってのがそもそもおかしい。「神と聖書と私とあなた」だけなら、その間に何をも介在させることは許されない。ましては神権の所有を勝手に主張する組織など。
宣教者そのものが既に組織の道具として取り込まれている。組織と同じ下劣な行動を自己の動機で正当化しているだけ。明石が指摘したように宣教者はエホバの証人組織の布教用の規格品に過ぎない。
そもそも、外国に行ってカルトを広めようなんて奴の人格なんて、当初から結論は出ている。低俗そのもの。本人がいくら自己を正当化しその目的に酔いしれようと、組織よって忌まわしいカルトの目的のために操られているだけ。