エホバの証人に刺激される嫉妬心
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』、「第十章 道」より。
家族を持ちながらも感じる孤独、日本でエホバの証人が拡大した20世紀の専業主婦女性特有の孤独、もしくは単なる人類共通の孤独。そういった孤独を安易に埋めようとするとエホバの証人に騙される。ここまでが昨日の記事の内容。
その後、刺激されるのが嫉妬という感情。
集会に行くと、前の方に必ず、一家揃って”神権家族”が座っている。そのなごやかな雰囲気と、希望に満ちた表情
が
たまらなく羨ましかった。いつか自分たちもああなりたい。あの幸せな絵の中の一人になりたい。
彼らは、幸福の象徴だった。
“神権家族”というのは、一家揃ってエホバの証人という家族のこと。エホバの証人の毒牙にかかった後、神権家族を羨むようになったとき。こうなったときには、嫉妬という醜い感情を鷲掴みにされた後。既に手遅れなのかも知れない。
嫉妬心が湧く前に、冷静に、ものごとを多面的に見られれば。
まず神権家族の父親、大概が定職に就いていない。この段階でお先真っ暗。老後破産一直線。羨ましがることなんて、何一つない。
神権家族の子供の立場になってみよう。逃げ場のない宗教の強要。安堵の場である家庭に逃げ場がない。逆らえば、懲らしめという暴力で宗教、親への服従を強いられる。外に見えるなごやかさは、暴力と無力な子供への強制の成果。
また、”神権家族”が集会所で前の方に座っている段階で、目的を察すべき。孤独を抱える人の嫉妬心をくすぐる気満々。エホバの証人の広告塔に見事にハマっただけ。
「あなたにもワンランク上の生活を」と言われて、高級車だとか高層階のマンションに惹かれてしまうのと同じ。そりゃ大きな車も欲しいし、眺めのいい部屋に住みたい。
でもね、勝手に生活にランク付けられるのは違うよね。一方的な価値観を押し付けて、人を一段下に見るなと。車と不動産のローンで、ギリギリの生活することになれば、果たしてそれはランクアップ?
そして、家族揃って集会に来ている暇な一家が、果たして本当に幸福なのか?
単身赴任で離れて暮らし、家族のために忙しく働いている父親が、週三回の集会に足を運ぶ父親に劣るのか?家族の絆を物理的な距離や時間でしか測れないのは、思考回路が稚拙すぎる。
嫉妬に関する問題はとうの昔に結論が出ている。
「隣の芝生は青く見える」
他人と比べるから自分がひもじく見える。他人の家族を見る前に、自分の家族を見つめろと。
21世紀の日本では、エホバの証人神権家族を羨ましいと思う人はいないのかも知れない。とはいえ、この教訓はいかなる場面でもあてはまりはしないだろうか?