「心底楽しめない」エホバの証人の人生
私は、生まれながらのエホバの証人という宗教の2世信者だった。エホバの証人というのは、自称キリスト教系の新興宗教。2世信者というのは、親によって宗教を強制された子どものこと。
エホバの証人の子どもは親によって四六時中、宗教活動に引きずり回される。そのため、心から楽しんで遊ぶことができない。大はしゃぎすることができない。
遊んだ後には、エホバの証人の集会や布教活動が待っている。暗くなって、疲れ果てるまで遊ぶことはできない。
恐ろしいことに、この「心底楽しめない」傾向は、20年以上も私の中に宿っていた。40才手前になっても、14才でやめたエホバの証人2世の頃の記憶が無意識下に刻み込まれている。
ハメを外して大宴会という雰囲気になると、なぜか罪悪感を覚えていた。その後、完全に酔っぱらってしまえば罪悪感も吹き飛ぶのだが、それは自分の感覚を酒で流し去っているだけ。
20代の頃でもそうだった。パチンコで有り得ない大当たりの連チャンが来て、
自身の楽しさが最高潮に達すると、何かいけないことをしている気がしてくる。自分はこんなに楽しんではいけない、こんなに恵まれてはいけない。
そんな気持ちになる。なぜか?元エホバの証人2世だから。
本当にエホバの証人ってろくなもんじゃないと思う。何かを心から楽しむ一瞬こそが人生の醍醐味のひとつなのに、それができなくなってしまった。
元エホバの証人、30年目の癒しの要因
現在、40才を超え、心底楽しめないという傾向からは、だいぶ解放された。
この癒しの原因は
単なる時の経過。30年という時。
こうしてブログを書いて、自身の心中を整理できつつあること。
子どもが生まれたこと。無垢な子どもと一緒に、過酷だった自分の子ども時代を生き直していること。子どものときに取りこぼした人生のパーツを回収している。
自分を認める。自己の肯定。自分を許す。こういったことができつつあること。「オレみたいな人間だって、楽しく生きて良いんだ」そう思えるようになった。
複数要因が絡まって、心底楽しいときに楽しむことができるようになりつつある。
ツキまくりのラッキータイム、今日は完璧な一日だったなんてことは、人生でそうそうない。だから、楽しむべきときに楽しむスキルを、ものみの塔から取り戻せつつあるのは良い傾向なのかと。