不要、神の義認
エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)より。『ものみの塔の終焉』1章『義認』
義認とは何か?本資料で簡単に説明されている。
始まりは、我々人類が人類の祖アダムが犯した原罪を背負っているという設定から。生まれながらに人間は罪深いそうな。人の背負ったそのカルマを償ったと自称しだしたのがイエス・キリスト。
人は誰もがキリスト(教)を通じて原罪を赦される。その赦しが義認。天(神)の義認。
この段階で、私からすると「君たちお馬鹿さん?」なのだが・・・とんちかんかんな妄想しやがって。キリストの誇大妄想に付き合わされているだけ。
父祖アダムだろうが、キリストだろうが、自分が生まれる前の大昔の話を原罪だとか何だとかって押し付けられても困る。
人は生まれながらに罪深い?子どもなんて純粋そのもの、罪深くなるのは周囲の影響のせい。
あと、興味津々で楽園の果実喰っちゃった父祖アダムは神に対抗した英雄でしょ。
信者や植民地獲得のためのキリスト教の都合を、押し付けないで頂きたい。
霊的弱者、エホバの証人
私にも全人類にも義認は不要なので、この話はこれでおしまいでも良い。しかし、私には子どもの頃にエホバの証人2世として、義認を強く要求された過去がある。いまだにその理不尽さに苛立ちを覚えるので、もう少し話を続ける。
義認、神の許しをチラつかせるのが、キリスト教。ここには大きな問題があると著者は指摘している。
義認されているのかそれともそうではないのかを証明する現実の証拠、誰もが明らかに認めうるような決定的な証拠がない
むむ、これってやりたい放題じゃね?
また、霊的裁きというモノもあり、これは、義認無くば精神を裁かれるという感じだろうか。
義認の霊的レベルでの表れは瞬時には容易に見分けがつかない。早い機会に見抜くには、かなりの霊的な識別力、洞察力が必要である。
著者は、この霊的裁きは0か1のデジタルではなく、アナログ的裁きであると書いている。アダムが罰せられ永遠の命をはく奪された後も、実際には死ぬまで900年かかった。
いつ結果が出るのか分からない霊的裁きを振りかざせば、さらにやりたい放題。
「私は霊的な識別力、洞察力が高い者です」とか言い出せば、周囲の霊的弱者は「ははぁー」となる。この自称霊的洞察力高い人の言い出しっぺが、ものみの塔聖書冊子協会の祖、チャールズ・テイズ・ラッセル。
そして、統治体、ものみの塔協会幹部へと、この手法が引き継がれた。
「神の義認」を「組織の義認」にすり替えてしまった
これが、霊的弱者「エホバの証人」を搾取するカラクリ。
私のように「神の義認、何それ?」のような霊的無関係者にとっては、ものみの塔だろうが、神だろうが関係ないのだが。
霊的裁きの顕在化は、人類には永遠とも思えるほどに遠い未来なのかも知れない(そんなモノこねぇよ)。それでも著者は、神を待つ姿勢を崩さない。
しかしそれでも、神の判決は確実であり絶対である。すべての人の目に明らかになるには時間がかかっても、必ずそれなりの結果は生じる
神の判決の結果なのだが、何十年とエホバの証人を続けると必ず出る。非常に悪い形で。何十年とエホバの証人を続けた末期には、精神を病み、家族を失い、経済的基盤を失う。それが判決。霊的物質的裁きがエホバの証人に下っている。
これが神、因果応報。神は我々の周りに満ちているルールそのもの。与えたモノが返ってくる。蒔いたモノを刈り取るというアレ。行動が結果として返ってくる。
エホバの証人は、今が不幸でも「将来、楽園で~」と思っているのかも知れない。しかし、一人でも家族が欠けた楽園を、心からエンジョイできると思っているその精神の幼稚さ。想像力の乏しさ。それこそ裁かれるべき、家族への愛の欠如と罪深い自己愛。
「私の家族は全員エホバの証人なので」
いやいや、人類皆兄弟なんじゃ?エホバの証人以外の全人類が死ぬハルマゲドンを待ち望んでいる排他性。エホバの証人の罪は重いぜ。