分かってるつもりの病理
先日、この記事にこんなコメントが届いた。過去記事を毎日Xに投稿しているので、そのためかと。
エホバの証人の子供たちは,野外奉仕を喜んでしています。手紙を書いたり,学校でクラスの友達や先生に証言したり,家の人に証言したりしています。
あなたは,ただ強い勇気と確信がなかったので強い信仰がでなかっただけです。もっと強い勇気と確信を抱けるようにしてください,と祈ればエホバに喜ばれたはずです。
「エホバに喜ばれた」という気持ち悪さマックスの表現から、現役エホバの証人と思われる人物からのコメントみたい。
不思議なことに、この人は「エホバの証人の子供」でも、「あなた」こと私でも、ましてや「エホバ」でもないのに、なんで、それぞれの心の中が分かるんだろうね?
分かってるわけがないので、分かっているつもりというか思い込みというか、もはや病的。まぁ、それをエホバの証人と言うんだけども。
30年越しの確信の答え合わせ
いやはや、よくもまあ他人の人生をそんな軽々しい言葉で断じられるもんだなと、正直呆れる。 というわけで、30年前に親ごとエホバの証人を捨てた勇気の溢れていた私から、以下の返信をしてみる。
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「子供たちは喜んで奉仕してます」って断言できるなんて、あなたは全エホバの証人の子どもたちの心の中が見えるんですか?それとも、マニュアル通りのセリフを繰り返してるだけ?
「勇気と確信がなかっただけ」って、よくそんな雑な分析で他人の人生を語れるなあ。むしろ、親ごとクソカルト宗教エホバの証人を捨てた私の方が、よっぽど勇気あるだろ。
自由のないエホバの証人的人生は地獄だって、当時から確信してたし、脱会したことに後悔は一切ない。30年経った今でも、その確信は全く揺らいでないよ。
“清く正しく”生きてるつもりで、実は思考停止の人生って、だいぶイタいよね。そんな人生、終わってるって強い確信があったし、今もそう思ってる。
自分の頭で考えて、自分の人生を選ぶ。それができない人ほど、他人の選択を否定したがり、今の自分を肯定しようと必死。疑うことをしない。考えないから好転しない。悪循環なんだよ。
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信仰は自由。でも、その自由を使って他人の人生を裁くことは、信仰とは呼べない。 私は、自分の確信で自分の人生を選んだ。そして、それは今のところ正解だった。あなたは、いったい誰の言葉で生きている?


