聖書によるとエルサレム陥落BC608年、終わりの時代は1913年からになりますが・・・

ものみの塔さん。「そのようなわけ」ってどのようなわけ?

エホバの証人の論理的アキレス腱、BC607年エルサレム陥落を崩す。昨日の記事の続き。

『古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか』という2011/10/1のものみの塔記事。

流刑を終わらせるその布告は,「ペルシャの王キュロスの第一年」に出されました。

そのようなわけで,ユダヤ人は真の崇拝を回復するため,西暦前537年の秋にはエルサレムに帰還していました

それで,聖書の年代記述によれば,その70年は西暦前537年に終わった,文字どおりの70年間でした。その時から70年をさかのぼると,始まりは西暦前607年ということになります

だから、エルサレム陥落は数多の考古学的証拠を無視してBC607年だというエホバの証人の主張。

まず、空想創作本「聖書」を参考にしている時点でお寒い。

そして、上記の塔記事の記述、「そのようなわけで」って、いったいどのようなわけだよ?この塔記事では一切説明がない。ここにものみの塔のウソが紛れている。

前述の塔記事はエズラ1章から3章を引いている。

ペルシャのキュロス王の治世の第1年のことである(エズラ1:1)

キュロスのルーキーイヤーはものみの塔の用語辞典的な『洞察』では

キュロスの第1在位年は西暦前538年のニサンから537年のニサンまでの期間

とある。ニサンというのは、エホバの証人なら誰でも知っている3月~4月の春先のこと。ニサンの14日にエホバの証人は記念式というカルトな年次イベントを毎年行っている。

エズラ書はそのあとグダグダと続き、

第7の月になり,それぞれの町にいたイスラエル人は,同じ思いでエルサレムに集まった(エズラ3:1)

同じ思いって何だよ?人間甘くみんなよ。絶対メンドくさいと思ってた奴もいるんだけど・・・というのは置いておいて、1章でキュロスのルーキーイヤーのことだと言って、そのまま年次の話はないまま、3章で7月に。

エルサレムの真の神の家に来た年の翌年,第2の月に(エズラ3:8)

そして、翌年2月と。

ここまでをまとめると、BC538年の3~4月からBC537年の3~4月のあいだの7月には、イスラエル人がエルサレムに帰還している。そして年が明けて2月にまた何か始まったと。

ということは、エホバの証人的には絶対信仰の聖書の記述によると、イスラエル人のエルサレム帰還はBC538年の7月ということになる。そして翌BC537年2月からグダグダ何かが始まったと。

この70年前はBC608年。エホバの証人的には70年間のバビロン捕囚なので、エルサレム陥落はBC608年となる。さらに、エホバの証人的にはこの2520年後が終わりの時代スタート。これだと1913年になるのかな?

はい、エホバの証人独自の主張エルサレム陥落BC607、終わりの時代スタート1914年が少しずつズレてくる。

霊感のもとに記された聖書からの証拠がエルサレムの滅びは西暦前607年であったことをはっきり示しているのであれば,多くの権威者たちが西暦前587年という年に固執しているのはなぜでしょうか

というものみの塔的な記述でまとめると

霊感のもとに記された聖書からの証拠が、イスラエル人のエルサレム帰還がBC538年であったことをハッキリ示しているのであれば、エホバの証人がBC537年という年に固執しているのはなぜでしょうか?

それは、エルサレム陥落BC607年と終わりの時代1914年スタートというエホバの証人だけが主張する独自の年代を捏造するためです。つまり、バカだからです。それらの年は考古学的にも聖書的にも無根拠です。


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