何らかの態度を貫くとは
『良心の危機』、第1章「良心の代償」より。
生涯が終わりに近づいてきた時、「少なくとも私は何らかの態度を貫き通した」と言うことのできる人の方が、何の立場も貫かなった人よりも満足感が大きい
当初、「ごもっとも」とうなづいたのだが、
かたくなにも「エホバの証人としての態度を貫き通しました」なんて人が出てくると困る。それは単なる自己満足で、ものみの塔の言いなりになっているだけ。何らかの態度を貫くという美しい姿勢とは、対極。
頑迷なマインドコントロール状態を貫いて生きるのも、「何らかの態度の貫き」であろうと言われれば、それはその通り。しかし、それは残念極まりない生き方の貫き方。
その時々で柔軟にベストな対応を取るという態度だって、それを続ければ「何らかの態度を貫き」通したということにはなる。
結局はモノの見方しだい。エホバの証人には「家族に迷惑をかけない態度」を貫き通して欲しい。
『良心の危機「エホバの証人」組織中枢での葛藤』、回り道回避の一冊
エホバの証人を脱会すべきという良心
“良心に従い宗教を脱会するときに、立ちふさがるカルト要素” の続きを読む