コミュニティーがあるから棄教できないというのは本末転倒
『芸能人と新宗教』の第五章「新宗教はなぜトラブルを起こすのか」より。本書では創価学会についても触れている。
一部の団地や離島では創価学会員のコミュニティが築かれていることが指摘されている。そのため、
信仰がコミュニティー全体にまで広がっているということは、人間関係がすべてそのなかで営まれるということを意味します。そうなると、信仰を捨てようと思っても、それは同時にコミュニティーを捨てることにつながるわけで、なかなかそこに踏み切ることが難しくなります
言っていることも、信仰を捨てられない気持ちも分からなくはない。エホバの証人のケースで考えてみると、親や親類、身の回りの人が信者で固められているというのは想像に難くない。
生まれ育ったコミュニティーを捨てるとか、数十年に渡って所属したコミュニティーを捨てる、裏切るというのは困難なことだと思う。
思うのだが、コミュニティーって宗教とか信仰とは関係ない。おまけみたいなモノ。というより信仰や宗教にとって、コミュニティーとは不必要で余計なモノ。宗教とか信仰というのは、神と自分、教えと自分の関係。他人はどうでも良い。つまり、
コミュニティーを捨てることができないから信仰が捨てられないなんていうのは、本末転倒。宗教でも信仰でもない。単なる人恋しさからくる甘え。
お菓子の家教団に人生フルベット、新宗教と既成宗教の違いとは?
宗教を度外視しても、コミュニティーなんてのは人生のおまけに過ぎない。
自分が何をして何をしないか、というのが人生の主題。成すべきことのために所属するコミュニティーを選択するというのならまだしも、コミュニティーに所属し続けるために人生を捻じ曲げる、なんていうのは大いなる矛盾。
どんなコミュニティーだって長く続けば腐ってくる。当初のフレッシュな状態のまま永続するコミュニティーなんてのはない。さらにメンバーの新陳代謝が少なければ劣化速度は増す。
と考えると、我々としては一つのコミュニティーにこだわったりせず、人生のステージに応じて、所属するコミュニティーを変えるべき。そして、性質の違うコミュニティーに同時に入ってみたりと、試行錯誤を繰り返すべき。
劣化していくコミュニティーにいては自らの成長や人生の発展は望めない。
それを、偶然親が入っていたコミュニティーに生まれてから死ぬまで属し続けるとか、他のコミュニティーを一切認めようとしない排他的なコミュニティー一択にするとか、視野が狭すぎる。
だから、騙されて人生を圧倒的に搾取されていることにすら気付かない。それが閉鎖的な宗教コミュニティー。



僕の会衆には,中国語グループの
兄弟姉妹たちが交わっています。
先週の横浜中国語大会では,
49人がバプテスマを受けました。
結びの話は,統治体のジェイコム・ラムフ兄弟がきたみたいです。
今週の土曜日には,他の会衆から移動して来た兄弟姉妹を歓迎するために
バーベキューを開催します。
兄弟のほうは,10月から日本語会衆の
奉仕監督になりました。
ホントの家族を放っておいて、赤の他人の「兄弟姉妹」と週末を過ごすって病的だな。その「兄弟姉妹」も「組織」に忠実な間だけという条件付き。何もかも偽物なんだよ。
逆に,エホバから除かれた人たちと
裏切った人たちは世の中の交わりを
楽しんでいます。
最初は楽しいものですが,時間がたつと
エホバの家族に戻る決意が強まるはずです。
強まらねぇよ。
「はずです」って、勝手な憶測や願望を断定すんなよ。
「エホバの家族」っ言葉がキモチ悪すぎて、戻るとか論外。これが元2世信者の実感。