ものみの塔の大筋3点セットはすべて創作
『良心の危機』第2章「私が本書を書く理由」から。
本書の著者らが記した、エホバの証人の宗教本『聖書理解の助け』について。著者自らその本を振り返っている。
先入観にとらわれたり、聖書そのものにもっと忠実であってしかるべきだった箇所もある。それが自分でもわかっているのは、例えば「諸国民の定められた時」「忠実で思慮深い奴隷」「大群衆」などの項目
このいずれにも、ものみの塔協会の教えを支持する目的で書かれた部分が含まれてしまっている
「定められた時」は今ではなく、すでに過去。さらに「忠実で思慮深い奴隷」が存在したのも過去の話。当然「大群衆」はエホバの証人ではない。と先入観を取っ払うと、ものみの塔の根幹が揺らぐ。
つまり、エホバの証人の信じていることの大筋はすべてものみの塔の創作。
聖書に不忠実なものみの塔のマインドコントロール情報
こういう教えは私にとって事実に等しかったためであるが、結果的には後に自分が「前書き」で書いたことを裏切る形になってしまった。
後に書いた「前書き」で結果、裏切る。つまり、事後に書いた「前書き」に虚偽あり。普通に考えると、単なる裏切りで確信犯の嘘つきなのだが。著者には特殊事情がある。
「前書き」6頁の「目的」というところには「『聖書理解の助け』は教義の解説でも解釈の書でもありません」と記してある。また、比喩的あるいは象徴的な表現についてのいかなる解釈も「独断的に、また教義に合わせるために」なされることはないとも記してある。大筋においては確かにその通りであった。しかし深く思い込んでいた信念は強く、常にその通りではなかった
著者が深く思い込んでいた信念や、本人にとって事実に等しかったものみの塔の教え。それらは、聖書に不忠実なものみの塔独自教義。
著者は、いかに聖書そのものに忠実であろうとしても、逃れられない深いマインドコントロール下にあった。ものみの塔の根幹に疑念を挟むという発想がなかった。もしくは、
聖書に忠実である時点で、ものみの塔の教理に齟齬が発生するので、この部分だけは目をつぶり、裏切るしかなかった。良心を。それが無意識化であれ、結果は同じ。読者に対する欺瞞。裏切り。有害なマインドコントロール情報を垂れ流したということ。
前述の「諸国民の定められた時」「忠実で思慮深い奴隷」「大群衆」の3点セットがものみの塔の大筋。この3つに虚偽を堂々と記載している時点で、大筋がズレている。つまり、「聖書理解の助け」は有害なマインドコントロール本。
自己弁護もあるのかも知れないが、著者が控え目控え目に罪を告白しているせいで、ものみの塔の虚偽の大筋が明らかになる。
「終わりの時」は今ではないし、「忠実で思慮深い奴隷」は現代には存在しない、無論エホバの証人は「大群衆」ではない。それらはものみの塔が、聖書中の比喩、象徴を独断的に解釈したものだと、著者は回りくどく書いている。
もっとはっきり詫びて告発すればいいものを。本書の執筆当時、著者は未だものみの塔が張り巡らせた闇の中を彷徨っていたのかも知れない。