歴史から得られる教訓:信じてないけど、票になるから─カルト宗教と政治の共犯関係

歴史の教訓:どこで間違ったのか?

歴史はどこで間違ったのか? ここからは、新約聖書の教訓ではなく、歴史の教訓。 昨日までの記事の続き。

キリスト教が世界にはびこった理由。全人類の犠牲のために死んだという、まさにカルト宗教的なモノが世界にはびこり、後世に禍根を残すことになった。エホバの証人しかり、米国の建国しかり、数多の宗教戦争しかり。

キッチリとキリストの根を摘む動きをしていたのに、結果、キリスト教が世界にはびこるようになった理由は?

カルトを”正統”に変える最悪のレシピ

ローマだったかなんかが、キリスト教を国教にしたんじゃなかったっけ?

これがそもそもの間違い。「宗教なんか何だっていいんだから、めんどくさいキリスト教徒の連中を手なずけるのに、キリスト教を国教にしゃちおうよ」と、私利私欲に走る権力欲に満ちた連中がいた。

「宗教なんか、何だって同じなんだから、うるせぇ奴ら黙らせるために」という冷徹な合理主義者でもあった。

しかし、後世や社会のことなど意にも留めない高潔とは正反対の決定であったことは間違いない。それは歴史が証明している。

中途半端な弾圧と、その後の政治的迎合は、むしろ“正統性”を演出した。「あれだけ潰されたのに、今は認められている」という物語が、信仰を補強。つまり、潰すなら徹底的に、無視するにも徹底的に。中途半端が一番まずい。

サンヘドリンとローマは、キリストを裁き、処刑することで“異端”を潰したつもりだった。しかし、後にローマがキリスト教を公認し、ついには国教に据えたことで、「やっぱり本物だったんだ」という神話が完成してしまった。

中途半端な弾圧と、後の迎合。それが、カルトを“正統”に変える最悪のレシピ。

現代への警鐘:日本の政治とカルト

そろそろまとめ。 歴史の教訓。 政治は宗教と結びつくなってこと。 いや、むしろもっと分かりやすく書くと、政治家はカルト宗教と結びつくなってこと。

キリスト教が国教になったのは、信仰が真実だったからではない。それは、ローマ帝国にとって都合がよかったから。多神教の混沌を整理し、民衆を一つにまとめ、皇帝の権威を神聖化するための道具として、キリスト教は“採用”された。 それは信仰の勝利ではなく、政治都合の合理的な判断。

この視点、現代にもそのまま応用できる。「信じてるわけじゃないけど、票になるから使う」って、どこかで聞いたような話。

・・・ おいおい、これって今の日本じゃねぇかよ。歴史に学んでいないんだな。我が国は。

現代の「政治家がカルトと距離を取るふりをして、選挙では利用する」構図にもピタリと重なる。歴史は繰り返す、というより、自ら

繰り返している連中がいる。

歴史を見れば、宗教と政治が結びついたときに何が起きるのかは、もう何度も証明されている。しかし、今の日本でも「信仰の自由」の名のもとに、カルト的な団体と政治がズブズブになっている。しかも、表向きは「票のため」「組織票の確保」といった“合理的”な理由で正当化されている。

しかし、その“合理”の先にあるのは、 説明責任の放棄、政策の歪み、被害者の放置 、信仰を盾にした免責の構造。「歴史の教訓を無視した愚行」そのもの。

せめて、読者の皆さまは心して下さい。カルト宗教と結びつくような政治家がなんたるかを。後世や社会のことなど意にも留めない、高潔とは正反対な私利私欲に走る権力欲に満ちた連中だってことを忘れないで。

歴史は繰り返す。しかし、それは我々次第。


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