使い捨て新宗教に「永遠」をもたらす力などない
『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する』から。
2章「ヨーロッパが直面する宗教の危機」
新宗教は、時代のありようと深く連動し、その時代特有の社会問題への対応として生み出されてくるもの
その分、時代が変われば、魅力を失い、新しい信者を獲得できなくなる
新宗教は使い捨てということだ。アイドル=偶像の意味があり、時代が変われば使い捨てられるアイドル的存在と新宗教は同じ。
社会のひずみを利用する者に生み出され、信者を増やす。ところが、新宗教自身がやがて社会のひずみとなり、そして廃れ、使い捨てられる。
ところが、使い捨てられる新宗教に人生そのものを賭けてしまう信者が存在する。当然、信者自身の人生も使い捨てられる。たった一度限りの人生が。
しかしながら、本人は使い捨ての新宗教にすがって「永遠」を妄想している。時代に使い捨てられる新宗教に「永遠」をもたらす力など存在しないのは明らかなのに。
インスタントな使い捨て宗教「エホバの証人」
日本のエホバの証人にもこの傾向が見られ、信者の増加は停滞。絶賛使い捨て期に突入中。1990年代までのような信者の増加傾向は見られない。
私のように生まれながらにエホバの証人という激ダサ宗教を強要された立場からすると、いったい何が魅力に映ってかつて20万人もの信者が騙されたのかは謎。
しかし、何らかの要因があったのだろう。心の隙間や闇をくすぐる何かがエホバの証人という激ダサ教にもあった。「永遠」に生きる未来とか、兄弟愛とか、神の愛という寝言のようなもの。
戒律で雁字搦め、輸血拒否の戒律で自己の生命さえ自由にならないエホバの証人はとにかくダサい。子供の頃から私はそう思っていた。そんな連中に兄弟愛とか示されても、困る。勝手に兄弟とか仲間扱いしないで欲しい。一緒くたにされるのはたまったもんじゃない。
「永遠」だってそう。激ダサ兄弟と「永遠」なんて、永遠の責め苦に等しい。「永遠」に好きなことだけやって生きていられるのなら、まだありだが、永遠にエホバの証人の戒律に縛られるなんて、苦痛でしかない。
そして、好きなことだって「永遠」にやってると、いずれ飽きる。人間は、時間が有限で人生が一度きっかりだから、時を忘れて好きなことに没頭できる。「永遠」に死なないと分かった瞬間に人生は色を失う。
あと、エホバの証人が感じている神の愛、その神の存在を証明できるものなど何もない。ものみの塔が存在を主張しているだけ。そのものみの塔も漏れなく他の新宗教と同じく時代に捨てられる偶像だった。
インスタントな使い捨て宗教に「永遠」も「神」も宿るはずがない。つまり、汚らしく使い捨てられるエホバの証人の未来が、エホバの証人の神など存在しないことをきっちりと証明している。