エホバの証人がくれる要らない中学の制服
昨日の記事の続き。東洋経済ONLINEから『脱会した宗教2世が「母に会えない」過酷な現実』前編。
取材されている元エホバの証人2世、排斥者の女性が、周囲のエホバの証人信者には感謝していると述べている。
- 中学の制服を貰った
- 家を借りるときに保証人になって貰った
この2点を挙げ「エホバの証人がいなかったらとても暮らしていけなかった」と。
ここは冷静に考えてみよう。中学の制服、必要としていて貰えたのなら、貰えた側はありがたいが、あげた方は単なる不要品の処分。そこまでありがたがる必要はない。
月に何十時間も布教活動するエホバの証人。その時間働いて新品の制服買ってやれよ、と私は思う。せっかくの中学入学、人生で一度のことだぜ。
こう考えると、人生にたった一度の中学校の入学式で新品の制服にそでを通せなかったのは、エホバの証人のせい。ろくなもんじゃないだろ。有害すぎる。
エホバの証人が家を借りるときの保証人になってくれた?
家の保証人だってそう。一筆書くだけ。保証人になっているエホバの証人のほうには、一銭たりとも金を払う気はない。
「エホバの証人がいなかったらとても暮らしていけない」と思っている親子の保証人になっている。つまり、この親子は、少なくとも親のほうは暮らしていけなくなるから、エホバの証人であり続ける。この親子は絶対に家賃を滞納して蒸発して、周囲のエホバの証人から逃げたりしないという前提がある。
もしくはマインドコントロールの妄信で「エホバの証人は良い人だから家賃滞納して逃げるわけがない」、と信じ切った上で保証人になっている。
むしろ、エホバの証人は借金まみれになったってハルマゲドンでチャラになると信じている。だから保証人にでも何でもなる。そこに深い愛はない。
保証人がいなくて家が借りられないときに、保証人の欄にサインしてくれるのはありがたいけれど、実際に家賃を払って貰っているわけではない。そこまでありがたがる必要はない。
エホバの証人がいなければ・・・
他のことだってそう。「周囲にエホバの証人がいなかったらとても暮らせていなかった」と言っているけど、本当にそうだろうか?エホバの証人が毎月の生活費を払ってくれた、とはとても思えない。
微妙なおかずの一品を持ってくるとか、エホバの証人はよくやるけど、そんなモノたいした足しにならない。それよりエホバの証人をやめて、エホバの証人活動に費やしている時間分働いたほうがよほど生活のためになる。
この女性とその母親は生活が苦しかったと言っているが、そもそもの元凶はエホバの証人。エホバの証人活動に時間を割かれ、働かなかったから生活が苦しかったにすぎない。エホバの証人を辞めて必死に働けば、生活水準は当然好転する。
エホバの証人を辞め、搾取されていた時間分を労働すればきちんと対価が入る。それを阻んでいたのが、エホバの証人の表面的な愛情と思いやり。エホバの証人の排斥者以外に示される愛と友情。下らない限定的なモノ。
その象徴が、要らなくなった中学の制服と一銭も損をしない保証人。たいした役には立たない。
「エホバの証人がいなかったらとても暮らせていなかった」のではなく、「エホバの証人がいたから、生活が苦しかった」というのが正解。



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