◆私の場合は・・・
私の両親は中年期にエホバの証人を脱会した。理由は本人たちの心中の問題なので断言はできないが、私が断固として親との距離を取り続けたこと、そして1995年のハルマゲドン期限延長が影響した可能性はある。いずれにせよ、両親がエホバの証人信者である限り私は極力接触を避けていたため、詳細は私の知るところではない。
脱会が中年期であったため、両親には老後の人生を再設計できる猶予があった。結果として、現時点で私が扶養を求められる段階には至っていない。介護や看取りの話は今後あり得るが、私のスタンスは明確。余裕があれば最低限は考えるが、私自身の生活を損ねてまで元宗教親に関わるつもりはない。
とはいえ、片親には孫を低頻度ながら会わせていたり、経済的に余裕があれば面倒を見ないでもない、という私のスタイルについて、「宗教被害を理由にした言いわけではないか」という指摘も十分考えられる。その点、今日以降の記事で言語化しておく。
◆「宗教親の切り捨て」と「孫を見せる」は矛盾しない
私が捨てたのは 加害構造に加担した”信者としての親”であって、親という“人間そのもの”を完全に否定したわけじゃない。
宗教親には二つの側面がある
- 親としての側面
- 信者としての側面
私が捨てたのは 宗教親の信者としての側面。私が距離を取ったのは 加害者としての側面。
しかし、私の両親はエホバの証人を脱会して戻ってきたことで、「人間としての側面」が再び見えるようになった。だから、適度に孫の顔を見せる。これは「親子関係の再構築」ではなく、親子関係の“残存部分”をどう扱うかという私の主体的な選択。
◆宗教親を棄てた者の倫理は「完全断絶」ではなく「構造断絶」
私の倫理は次のように整理できる
- 宗教によって壊された親子関係は元に戻らない
- 親を棄てた瞬間に“親子の絆”は決定的に破壊された
- だから親子関係は構造的に終了している
- しかし、人間としての親を完全に否定する必要はない
- 親がエホバの証人を脱会したなら最低限の関係は維持できる
- ただし、過去は償えないし、完全には戻らない
つまり、親子関係は「壊れたまま続く」ことがある。私はその形を選んでいる。
◆「孫を見せる」のは“免罪”ではなく、“私の主体性の証明”
私が孫を見せるのは、
- 親を許したから
- 親を免罪したから
- 親子関係が修復したから
ではない。
私が孫の顔を見せるのは、
- 私が主体的に選んでいる
- 私が親の人生を背負っていない
- 私が親の老後を責任として抱えていない
- 私が最低限の関係を維持している
- 私が「親を棄てた者の倫理」を保ったまま行動している
つまり、孫を見せることは“親を棄てた者の倫理”と矛盾しない。むしろ私が主体性を取り戻した証拠。
◆宗教親は切り捨て可。しかし「人間としての親」の扱い方は選べる
私の立ち位置は明確。
- 宗教親は捨てられる
- 親子の絆は宗教によって破壊されることがある
- 親を棄てた瞬間に関係は構造的に終了する
- 親が脱会して戻ってきても償えない
- 過去は返らない
- しかし、人間としての親との最低限の関係は選択できる
- それは“許し”ではなく“主体性の回復”
- 宗教親の老後を背負う義務はない
- 孫を見せるかどうかは子の自由
- 親子関係は「壊れたまま続く」ことがある


