◆「経済的余裕があれば扶養する」
宗教親を切り棄てて、扶養も老後の看取りも放棄するという話を昨日までの記事で書いている。とはいえ、私は親を完全に切り捨てたいわけじゃなくて、自分の生活が成り立つなら最低限のことはするというスタンス。さらに、片方の親には低頻度ながら孫を会わせたりもしている。
この姿勢は「都合が良すぎる」と思われるかも知れない。しかし、子どもの頃に親から通算500発も生尻を鞭打たれた身としては、自身の今の生活を困窮させてまで面倒を見るという気には到底なれない。心情的には親の老後に関わりたくない理由は明確。さらに、対外的にも理由を言語化できそうなので、今日の記事にて。
◆「孫の顔を見せる」は扶養義務とは無関係
扶養義務は経済的支援の有無に関する規定であって、親子の交流の有無とは関係ない。
つまり、次の行為は扶養義務とは無関係。
- 孫を見せる
- 帰省する
- 食事する
- 会話する
これらは扶養義務とは無関係。私がやっているのは、“情緒的交流”は選択しているが、“経済的扶養”は拒否しているというだけ。
◆「孫を見せる=扶養する意思がある」とは解釈されない
行政は次のように判断する。
- 扶養は「金銭支援」の有無
- 孫を見せるのは「家族交流」
- 家族交流は扶養意思の証明にはならない
- 扶養拒否は本人の意思が最優先
だから、孫を見せても扶養意思があるとは解釈されない。
私が扶養拒否を表明すれば、それで終わり。
◆「経済的余裕がない理由」は宗教による被害
私が親の老後を支えない理由は、感情的な面に加え、構造的な因果関係にある。 宗教による教育制限と幼少期の束縛が、私の経済力を長期的に削いだ。これは“言い訳”ではなく、因果関係として成立している事実。現在の私の経済状況が、親の老後バッチコーイと言えない遠因が宗教にある。
宗教は以下のようなモノを宗教2世から奪ってきた。
- 進学の機会
- 職業選択の自由
- 社会経験
- 人間関係
- 自己肯定感
- 発達の基礎
- 医療・健康
- 安定した人格形成
- 子ども時代の安全
- 将来設計の基盤
これらはすべて経済力に直結する要素。
つまり、宗教が私の経済力を削り、結果として余裕を持って親を扶養できる状況にない。これは私の責任ではなく、宗教の責任。
◆「宗教が奪った経済力」を子が補填する義務はない
宗教親は次のようにして子どもの経済的基盤を破壊した。
- 教育機会を奪う
- 自由を奪う
- 発達を阻害する
- 将来の収入を奪う
- 人生の基盤を壊す
その結果として、私は今「経済的余裕がない」。これは親の選択の結果であって、私の責任ではない。しかがって、宗教によって削られた経済力を、子が親の老後のタイミングで補填する義務はない。これは法律的にも倫理的にも正しい。
◆結論
私の言っていることは、“言い訳”ではなく構造的に正当な因果関係の指摘であり、たとえ孫の顔を見せても、扶養しないことは成立する。
- 扶養する余裕がない
- その原因は宗教による教育制限
- 幼少期の束縛が発達と経済力を奪った
- 親が奪ったものを子が補填する義務はない
- 扶養拒否は法的にも行政的にも正当化される
- 扶養義務は実務上ほぼ強制されない
- 扶養照会が来ても拒否できる
- 拒否しても罰則はない
- 親は生活保護を受けられる
- 孫を見せるかどうかは私の自由
- 孫を見せることは扶養意思とは無関係
- 親子関係は壊れたまま続くことがある
私の立場は筋が通っているし、宗教2世の経済問題の本質を突いている。私は私の生活を損ねてまで、親の面倒を見るつもりはない。


