エホバの証人の「ふさわしいでしょうか?」という思考停止

子どもの雪遊びが“信仰の踏み絵”になる世界

「雪だるまを作るのは、ふさわしいことでしょうか?」 これ、エホバの証人親が子どもに向けて本気で言うセリフ。いや、ただの雪の塊なんだけど。しかし、連中の世界では、これが“信仰の踏み絵”になる。それが「ふさわしさ」という名の思考停止。昨日の記事の続き。

「義の民」としての強迫観念

エホバの証人の世界では、「偶像崇拝」は絶対にNG。しかし、それだけでは終わらない。連中は“他人の目”を異常なまでに気にする。「義の民」として模範的にふるまわなければならないという強迫観念が、日常のあらゆる行動を縛ってくる。

たとえば、子どもが雪だるまを作っているのを、近所の人が見たらどう思うか?「あの家、偶像を作ってるぞ」と思われるかもしれない。実際には誰もそんなこと気にも留めないんだけど。しかし、連中は自分たちがどう見られているかを異常に気にする。

自意識のかたまりが集まるとこうなる

逆に言うと、そんな感じの自意識のかたまりみたいなのが、集まってできている宗教団体なのかも知れない。また、「常に模範的であれ」みたいな、実は社会人として当たり前なことを、変な角度で信者に叩き込むから、こんな異常な出来に仕上がってしまうとも言える。

信者同士の相互監視地獄

さらに厄介なのが、組織内の信者同士の相互監視。信者が信者を見張り合う構造がある。もし、他の信者に「雪だるまを作っているところ」を見られたら、「つまづかせた」と責められる可能性がある。

そんなことでつまづく奴が悪いというか、別につまづこうがどうでもいいんだけど、エホバの証人の世界ではそうはいかない。誰かを“つまづかせた”とされれば、それだけで非難の視線を浴び、教団という、自らの唯一と思い込んでいる居場所の居心地が悪くなる。

だから、親は子どもにこう言う。

「雪だるまを作るのは、ふさわしいことでしょうか?」

思考しているフリ=思考停止

まさにアホ。自分の頭で考えていないから、「雪だるまがふさわしくない」なんてバカげた結論に至る。

この問いかけ、いかにも“考えている風”だけど、実際には思考停止のサイン。自分の頭で考えるのではなく、教団の空気感に従っているだけ。こうして、子どもの遊びすら「ふさわしいかどうか」で判断される。

まだまだ終わらない「雪だるま禁止」の闇

しかし、これだけで「雪だるま禁止」をエホバの証人全体の問題へと昇華させる話は終わらない。もっとエホバの証人の極悪さを「雪だるま禁止」からあぶり出すことができる。明日に続きます。


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