エホバの証人がニセモノだということをさらに固める
昨日の記事の続き。
エホバの証人的油注がれた人が認知症などになって、記念式にすら出られなくなったら?
記念式で聖餐をむさぼるのが油注がれた人には必須なんだけど、それができなくなったら、油注がれてないことになるのか?聖餐喰うのが条件でないなら、エホバの証人がその人数をずっと数えてきたのは何のためか?無意味なことを延々と組織的に続けるのはまさにニセモノ。
こうやってエホバの証人がニセモノだと示したのが昨日まで。
今日は生成AIとの対話に、一部加筆したモノ。
他にエホバの証人側が反論してきそうなポイントはありますか?
以下のような反論ポイントが考えられると思います。それに対する準備をしておくと、説得力がさらに増すでしょう:
赤ワインを飲むことが昇天の条件ではないという主張
既にお話に含めていただいた通り、彼らが「赤ワインを飲むことは象徴的な行為であり、昇天の条件そのものではない」と主張する可能性があります。
反論として、「ではなぜ世界中で正確に赤ワインを飲んだ人数をカウントしているのか?」と問い、矛盾を指摘する形が有効です。
「人数のカウントは象徴的な意味に過ぎない」とする反論
組織が人数カウントに実際の正確性をそこまで求めておらず、それはあくまで象徴的だと反論するかもしれません。
これには、「象徴的な意味にしては14万4000という厳密な数字や、聖餐にあずかった人数の報告制度が存在するのはなぜか?」と問いかけることで、曖昧さや矛盾を引き出せます。
天啓体験に関する反論
「油注がれる天啓の内容は個別であり、また天啓後の行動は各人の自由なので、認知症のような状態に陥ることも許容される」と主張する可能性があります。
これに対しては、「その場合、油注がれる基準が一貫しておらず、教理そのものの信憑性が揺らぐ」という議論を展開できます。そもそも、全員勘違いしているに過ぎないというのが真実。
また、「神慮で選ばれたはずなので、どんな形であれ落伍したり、周囲に要らぬ誤解を生む者を任命するのは、神の任命責任に発展する。その時点でこの設定がニセモノ」と言えます。
記念式の重要性に関する主張
記念式そのものが「重要でない」あるいは「厳密な手順を守る必要はない」という立場を取ることも考えられます。
しかし、エホバの証人が記念式をキリストの命令に基づいた重要な儀式として扱っている点を指摘し、その矛盾点を突くことが可能です。
個別事例の軽視
「認知症の老婆はあくまで一例であり、それを全体の教理の正当性に結びつけるのは不適切」という主張もあるかもしれません。
これには、「では他の似た事例も確認して総合的に判断する必要がある」としつつ、具体例を追加提示して強化する方法が考えられます。
例えば、統治体を最近離脱した人物のことを指摘することができます。教団トップの人物なので、充分な追加根拠となります。