エホバの証人による寄付金流用裁判、ものみの塔側証拠資料「乙30」-その2

排除すべきモノは排除すべき

ものみの塔と裁判をしている件。ものみの塔側が第一審で、私の以下のブログ記事を証拠資料「乙30」として提出している。

宗教要らない。まずはエホバの証人を日本から一掃しよう

昨日の記事の続きなのだが、今日からが本題。昨日の記事ではヘイトスピーチにまつわるエホバの証人側の印象・情報操作に関する背景を検証。今日は、この記事がヘイトスピーチにあたるのか?という話。Copilotと対話している。

私「元の記事はヘイトスピーチなの?」

よし、ここからが本題の核心だね。 あなたが最初に提示してくれた記事――「宗教要らない。まずはエホバの証人を日本から一掃しよう」という主張――これがヘイトスピーチに該当するかどうか、先ほどの背景を踏まえて、冷静に検討してみよう。

🔍 ヘイトスピーチの定義(日本の法制度に基づく)

日本では、2016年に施行された「ヘイトスピーチ解消法(正式名称:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)」があるけれど、これは人種・民族・国籍に基づく差別的言動を対象としていて、宗教団体や信仰に対する差別は直接の対象ではない

ただし、国連の人権機関や欧州人権裁判所などの国際的な基準では、宗教的マイノリティに対する憎悪扇動(hate incitement)もヘイトスピーチに含まれるとされている。

✍️ 元記事の特徴的な表現

  • 「エホバの証人は違う。存在が端的に悪だし…極悪」
  • 「エホバの証人、ハッキリ言って邪魔。少なくとも日本には不要」
  • 「日本からエホバの証人を一掃しよう」
  • 「信者が不毛な宗教活動をやめて働けば国が潤う」
  • 「被害などない。おめでとうという話」

これらの表現は、特定の宗教団体とその信者を「悪」「邪魔」「不要」と断定し、社会から排除すべき存在として描いている。しかも、「一掃しよう」という表現は、物理的・社会的排除を煽動するニュアンスを含んでいる。

🧭 評価:これはヘイトスピーチか?

結論としては、国際的な基準に照らせば、これは明確にヘイトスピーチに該当する可能性が高い

  • 対象が特定の宗教団体とその信者であること
  • 悪意ある断定的表現と排除の呼びかけ
  • 社会的偏見や敵意を煽る構成

ただし、日本の現行法制度では、宗教団体に対するヘイトスピーチは明確に違法とはされていないため、法的な意味での「違法なヘイトスピーチ」とは言い切れない。とはいえ、社会的・倫理的には極めて問題のある言説であることは間違いない。

この点、あなたのように構造的な背景(情報操作・印象操作)を踏まえて批判するのと、こうした言葉で「一掃しよう」と煽るのとでは、批判の質がまったく違う。前者は議論を深めるけれど、後者は分断と敵意を煽るだけ。

私「特定の宗教団体とその信者を「悪」「邪魔」「不要」と断定するに足る根拠があれば?」

鋭い問いだね。まさに「ヘイト」と「批判」の境界線を問う本質的な論点だ。

🔍 ヘイトスピーチと正当な批判の違い

国際的な人権基準では、「表現の自由」「差別扇動の禁止」のバランスが重視されている。つまり、ある宗教団体の教義や行動に対して厳しい批判をすることは許されるが、それが集団全体への憎悪や排除を煽る言説になると、ヘイトスピーチと見なされる。

では、もし「悪」「邪魔」「不要」と断定するに足る根拠がある場合、それはどう扱われるのか?

🧭 根拠がある場合でも、ヘイトスピーチになり得るか?

答えは、「なり得る」。理由は以下の通り:

  1. 根拠の有無は、表現の形式や目的を免罪しない  たとえば、ある宗教団体が輸血拒否によって子どもの命を危険にさらしているという事実があったとしても、「だからその団体は日本に不要」「一掃すべき」といった表現は、社会的排除を煽る言説としてヘイトスピーチに該当する可能性がある。
  2. 批判と断罪の違い  「この教義は子どもの人権を侵害している」「この制度は社会的に有害だ」という批判は、政策的・倫理的議論の対象になる。でも、「存在が悪」「邪魔」「不要」といった断定は、集団全体の人格や存在価値を否定する言説であり、批判の域を超えている。
  3. 社会的影響の観点  仮に根拠があったとしても、その言説が暴力や差別を助長する結果を生むなら、ヘイトスピーチと評価される。これは、国連人権高等弁務官事務所や欧州人権裁判所の判断でも一貫している。

🧠 では、どう批判すべきか?

あなたのように、構造的な問題(情報操作・信者への情報非共有・印象操作)を論理的に掘り下げる批判は、まさに社会的対話の質を高めるもの。それに対して、感情的・排除的な言説は、議論を閉ざし、分断を生む。

つまり、根拠があるからといって、どんな表現でも許されるわけではない。むしろ、根拠があるからこそ、冷静で建設的な批判が求められるんだ。

この視点、どう感じる?それとも、具体的に「どこまでが批判でどこからがヘイトか」を事例ベースで整理してみる?

こいつ、分かってねぇな。

「悪」だから「排除すべき」なんだろ。何者も「排除」できない社会って、それはそれで怖いだろ。一定の罪を犯した人間には退場頂くために刑務所があるわけで。悪と断じるに足る宗教団体にも退場頂く必要がある。

明日に続きます。


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