ありふれた偽物、エホバの証人
『マインド・コントロール 増補改訂版』「第二章 マインド・コントロールは、なぜ可能なのか」
矮小な自己愛しかもたないものにとって、見かけ倒しに過ぎないとしても、自信と確信に満ちて「真実」を語るものは、強烈なインパクトをもって迫ってくる
無根拠な自信と確信に満ちて、自称「真理」を語る、見かけ倒しにすらならないエホバの証人に騙される。
自分もまた特別でありたいと願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子となることは、自分もまた特別な出来事に立ち会う特別な存在だという錯覚を生む
錯覚。そんな簡単に「真実」や「真理」が手に入るはずがない。エホバの証人は甘いんだよ。
自分中心に考えてるから、何でも特別だと思っちゃう。教団も特別、私も特別、教理も聖書も特別だと。違うから。エホバの証人はありふれた偽物に過ぎない。
エホバの証人としての人生は全否定し、全部捨てろ
その錯覚のまやかし性は、グルが特別な存在だと信じることによって、自分も特別な存在だと説明されるという構造によって支えられている。
ものみの塔が真理なので、それを知っている自分たちは賢いと。そんなわけあるかって。そう思いこんでいる自分だけ。
グルが、聖者などでなく、聖者のふりをしたペテン師だということになってしまうことは、グルが特別でなくなるだけでなく、自分もまた、ペテンにかかったただの愚か者だということになって、何ら特別ではなくなってしまうことを意味する
ものみの塔が偽物なので、エホバの証人はただの愚か者。これが真理。
つまり自分が特別な存在でありたいという願望が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追い込んでいく。それを疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定するようなものだから
エホバの証人の場合、間違ったことをしてきたのだから、努力の方向も犠牲を払った方向も投資したことも、すべて否定されるべき。そこからでないとやり直せない。「騙された!大失敗した!」と、自己を省みない限り前進はない。
脱会者のなかにも、エホバの証人の中にも良いことがある、エホバの証人として経験したことで良いこともあると、全否定しない人がいるのだが、この手の人はまだ「治って」いない。
また同じ失敗をしそうだし、脱会していてもエホバの証人特有の悪臭のようなモノを放っていて見苦しい。まだ自分を賢い、特別だ、と心のどこかで思っていたりする。こういう勘違い野郎は醜い。
カルトに騙されて愚かだったと反省するところからしか、エホバの証人は前に進めない。そのようにして、真実を認めない限り、マインド・コントロールは解けない。
今までのエホバの証人としての人生、そんなモノは全否定で構わない。小さな小さな人生、宇宙全体に比べればたいしたモノじゃない。全部捨ててしまえば良い。あとの人生は良くなるだけなんだから。