エホバの証人の中で得たモノが本当に役に立っているとしたら?
エホバの証人だったことで役立っているモノに、以下の分類をした。
- それが得られるのが唯一エホバの証人のなかだけの固有なモノなら
- それがエホバの証人以外でも得られるモノなら
昨日の記事で1パターン目に触れた。今日は2パターン目。
エホバの証人だったことで役立っていることが、エホバの証人以外でも得られるモノなら?
これは本当に役立っているモノとそうでないモノの2つに分かれる。
まずは本当に役に立つモノ。
たとえば、語学であったり、一生の友人であったり、建築系の技術だったり。現実で本当に役に立っていて、気のせいでなく価値もあるモノ。
しかし、
それはエホバの証人だったから得られたモノではなくて、たまたまエホバの証人の中で得られたモノにすぎない。
エホバの証人に栄光を帰する類のモノではない。それは、自分の存在した場所を有意義にしてきた自分自身の努力の成果。自身の努力のたまもの。エホバの証人なんか褒めずに自分を褒めてあげてください。
エホバの証人だったことが、役に立っているという勘違い
エホバの証人だったことで役立っていると思えるけど、エホバの証人以外でも得られるモノ。その中で、実はそんなに役に立っていなくて、単なる気のせいなケース。勘違いにすぎないモノ。
例えば、話し方だったり、めげない営業スキルだったり、普通の友人だったり。
それらのエホバの証人の中で得られたモノはおままごとみたいなモノで、一般社会ではおそらくなんの役にも立っていない。四流、五流の代物、オモチャにすぎない。
こんなモノに価値を見いだしているのなら、自分をまだ騙している。
エホバの証人の中で身に付けた何らかのスキルをフックに、脱会後に磨き上げたというのなら、それはすごく立派だけど、それはエホバの証人だったこととは関係ない。脱会してからの自分の努力。
エホバの証人というハンデを背負い、生きてきた努力を認める
エホバの証人の中で得たモノなんて皆無で、在籍中にしろ、脱会後にしろ自分の努力で何らかの価値を生んでいるだけ。
エホバの証人の中で得たことが役に立っている、なんてのは気のせいというか、自分の弱点を認め切れていないだけ。
大きなハンデを負って、あのカルトからサバイブしたのなら、エホバの証人だったことで得られたモノなんかより、自分自身の努力を認めていい。
いまだにエホバの証人だったことで得られたなんてことに価値を置いている人は、まだ、自分の失った時間の重さを認められず、自分の弱さを認められずにいるだけ。
そのままだと、これから先の時間も、これから先の自分の努力に正当な評価を下せない。
まず、エホバの証人だったという自分の弱さを認めた上で、当時から今に至るまでの自分の努力を認めて下さい。
“「自分の弱さ」を認めずに、それを隠し、ごまかすほど、様々な心理学的な問題が起きてくる”
エホバの証人でやってたこと・時間すべてがムダだったと「自分の弱さ」を認めてしまえば楽になれる
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— 山羊男 (@jw2nd_com) September 4, 2024
“自分の弱さを認める、受け入れる。すなわち、「受容」するだけで、私たちの心はものすごく楽になります”
エホバの証人だったという自分の弱さを受容してしまえば、今ここで生きているだけで十分立派と思えるエヴァンゲリオンの心理学 (しおん出版) https://t.co/SL8XGzktZB @amazonより
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One Reply to “エホバの証人という弱点を認め、そこからサバイブした自分を認める”