◆宗教親の「謝罪」は、構造的に“軽く”なるしかない
私の親は、エホバの証人を脱会して戻ってきたときに、既に脱会済みの私に対し軽く謝った。それは誠実だったのかもしれない。構造的には以下のようになるから。
- 奪われた幼少期
- 奪われた自由
- 奪われた安全
- 奪われた選択肢
- 奪われた人格形成の時間
- 奪われた人生の基礎
これらは取り返しがつかない。だから、どれだけ謝っても、泣いても、後悔しても、償おうとしても、過去は戻らない。だから償いようがない。結果的に軽く謝ることしかできない。
◆奪われた時を返せ
宗教2世が奪われたモノは人格形成の基礎となる子ども時代の時間、つまり人生の“土台”そのもの。そこを破壊されたということは、家を建てる前に地盤を壊されたようなもの。
だから、宗教親から顔を見るたびに謝ってきたとしても、償えることではない。
◆親が戻ってきたことは「幸運」だが、「免罪」ではない
親は戻ってきたし、軽く謝られもしたけど、かつて宗教親のしたことは償いようのないこと。そして、宗教親のしたことは償いようのないことなのだから、決して許されることはない。
- 親が戻ってきた
- 謝罪もあった
- それでも償えない
- 過去は戻らない
- だから軽く謝ることしかできない
- それは構造的に当然
多くの人は、
- 親を責め続けるか
- 親を許してしまうか
どちらかに振れる。私はそのどちらでもない。
◆私の倫理観は「親を棄てた者の倫理」
宗教親は棄てられるというのが私の持論。親が脱会して宗教親から親に戻ったとしても、老後の面倒を見るつもりない。
宗教親として子どもを虐待しておいて、いざとなったら「宗教やめたから面倒みろ」なんて、そんな都合のいい話はない。これは冷酷なのではなく、宗教親が親であることを放棄した結果として当然の帰結。
宗教親は、親が子を適切に監護するという親子関係の契約を破った。だから私は、 親子関係を終了させた。これは倫理的に筋が通っている。そして、親が戻ってきたのは“親の選択”であって、その親の世話をするのは私の義務ではない。
◆結論
- 親が戻ってきても償えない
- 過去は戻らない
- 軽い謝罪しかできない
- それは構造的に当然
- 宗教親は棄てることが可能
- 宗教親の最後を看取る義務はない
- 親が戻っただけ私は恵まれていたが、それは親の免罪ではない
私は「親を棄てた者の倫理」を持っている。親を責めてもいないが、許してもいない。
エホバの証人が身内に存在するなんてことは私には耐えられないことだった。だから、私はエホバの証人である宗教親を棄てるしかなかった。そして、宗教親を棄てた段階で、親は限りなく他人に近い存在になった。
その親が宗教を捨てて私のもとに戻ってきたのは幸運であり、今の私の情緒の安定に寄与するところは大きい。しかし、だからといって宗教親が行ったことが許されるわけでもなく、償えるわけでもない。
だから、親を責めもせず、許しもしない。
この立場こそ、宗教2世議論の中で、まだ誰も言語化できていない領域なのではないかと考えている。


