商業関連の粘土板
エホバの証人の論理的アキレス腱、BC607年エルサレム陥落。本日もjwstudyのこの記事を参考にしている。
BC607年を主張するエホバの証人と一般的に確定しているエルサレム崩壊BC587年のあいだには20年の相違がある。この20年のウソを暴く。
本日は、商業関連の粘土板。エルサレム陥落がBC587年だと確定している根拠のひとつ。
現代でいうところのレシートや契約書のようなモノ。ここに暦として「〇〇王の第〇年〇月〇日」と記載されている。
この商業関連の粘土板が、新バビロニア時代(BC627-BC539年)のあいだに5万点存在する。平均すると各年600枚。
なおかつ、この粘土板が王名表やその他の粘土板や記念碑など、その他の考古学的証拠と一致する。
ここまでされているから、エルサレム陥落はBC587年で確定している。取って付けたような、ものみの塔の20年が割り込む余地はない。
ものみの塔が隠す「エギビ家の記録」
上記で触れた商業関連以外の粘土板で、決定的なモノがある。「エギビ家の記録」。
以下、エホバの証人の聖書用語辞典的な『洞察』の前身である『聖書理解の助け』から。jwstudyのこの記事を経由して引用。
投資基金が投機的事業、所有物への担保権、あるいは経済的な緊急事態のために貸し出されていました。取引の記録は粘土板に書き込まれて残されました。それらは複数の証人の前で行われ、関係者による印象や印によって有効なものとされました。そして偽造されないように複製の記録が作成され、粘土の覆いがなされ、不必要に開封されないようにもされました。一団の施設グループが銀行の運営を行いました。バビロンのエギビ家はネブカドネザル王の時代(西暦前7世紀の後半から6世紀の初め)に顕著な存在になり、数百の商取引のドキュメントが一族の名前で発行され、粘土板に記された記録として残されています。近年これらの記録は考古学者によって発掘されました
分かりやすい。エギビ家の記録がとても信用できることが端的にまとめられている。複数の証人がいること、偽造されないように粘土のフタで密閉されていたことが分かる。
「聖書理解の助け」には記載はないが、エギビ家の記録は、バビロンのネブカドネザルからペルシャのキュロスまでの期間をカバーし、エギビ家の一族の名前が記載されている。
「聖書理解の助け」が発行された1971年当時は数百だったエギビ家の記録だが、現在では1700枚以上の粘土板が発見されている。
ものみの塔にしては分かりやすく、しっかりと説明された「エギビ家の記録」の記述。しかし、
聖書用語辞典が「聖書理解の助け」から「洞察」に切り替わった1988年に、「エギビ家の記録」の記述はごっそりと削除されている。「洞察」は「聖書理解の助け」から、ほぼ同じ内容を引き継いだのにも関わらず。
そして、現在では公式サイトでも「聖書理解の助け」は表示されないように封印されている。
それはなぜか?明日に続きます。